2020年5月31日日曜日
現代哲学のまとめ(4)
分析哲学と大陸哲学の違い、再び(2)
例えば1950年代に、次のような流れが共存していたことをどのように説明するのか
フランスにおける実存主義と現象学(サルトル、メルロー・ポンティ)
イギリスにおける日常言語の哲学(ライル、オースティン)
アメリカの科学と意味の哲学(クワイン、グッドマン)
西ドイツの議論の倫理(アーペル、ハーバーマス)
イギリスにおける倫理の議論(アンスコム、ウィリアムズ)
さらに、スカンジナヴィア諸国、オーストラリア、ニュージーランドで起こっていたことも加わる
恥ずべきことだが、当時、東京やブエノスアイレスがどうであったのか何も知らないことを白状する
しかし、私が親しんでいる伝統とは異なるものの中で、他の本を読み、他の問題を検討して、哲学的問題を何も提起しなかったと考える理由は全くない
また、ソ連の緩衝地帯にある中央ヨーロッパ諸国の公式マルクス主義者と自由な思考を維持しようとした人たちにおける状況も考慮に入れなければならないだろう
私は本書において、現代哲学をフランスの特に高校で「哲学」という名の下に行われているものに矮小化しないように、できる限りのことをした
哲学論文、テクスト解釈、概念の試験、我々が慣れ親しんだすべてと共にフランスの中等教育で実践されている哲学
それは、少しでもより大きな国際的枠組みに身を置けば、哲学のマージナルな形に過ぎないことが分かるだろう
そこに何の価値も重要性もないというのではない
しかし、他のすべてを隠し、拒否することになるとすれば、何という貧しさだろうか
マスメディア受けする哲学、雑誌で扱われる哲学(雑誌名に「哲学」のあるものも含む)、ラジオやよく売れている本の哲学もまた、哲学の矮小化である
殆どの場合、哲学は曖昧なものであれ一般的なものであれ、偉大な道徳的、政治的思想と同一視されている
それはまさしく、中身のない無駄話を呼ばれるかもしれないものである
私は本書において、窓を大きく開け、フランスで「哲学」という名に纏わり付いている地域主義を避けるよう努めた
特に、高校最終学年の教科書や文章を集めたもので伝えられる現代哲学史に関して、私は警戒心を示した
それらの教科書は、ベルクソンからフッサール、サルトル、アーレント、メルロー・ポンティを経て、時にウィトゲンシュタインやポッパーを加えてフーコーへと進む
しかし、これらは他のすべてを無視している
だが、他のものは面白くないものではないのである
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