哲学史における論理学(3)
「もの・こと」をこのように語るのが正しいのだと仮定する
その場合、教養課程や哲学の道具として言語の解析や帰結理論に関わる論理学の排除は、哲学史の余談になる
全体的に見ると、これは長い歴史の中の2世紀を表している
20世紀のフランスでは、デカルトの明証主義は放置されたままであった
しかし、形式的な方法や論理学の拒絶は存続していた
論理学は何も生み出さない、真の思考の方法ではない、哲学者は遣り過ごしてもよい
このような意見が優勢であり続けたのである
真の思想家は天賦の才能(ingenium)を持っている
ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の序は、この点から見ると重要である
彼らはこう言っている
論理学的解析は、認識論、言語学、精神分析のように、哲学にとっての「無礼」で「最悪の」宿敵である
宿敵が非難されているのは、かなり曖昧なままなのだが、概念の創出者(哲学者)の思考の自由を攻撃するからである
そこに、論理学を哲学の道具とした哲学の伝統全体との断絶がある
広い意味でこれらの問題を扱ったアリストテレスの論文に与えられた名前の「オルガノン」は道具の意味であった
論理学の拒絶は、20世紀の哲学において重要だったことに関して無理解であったことを物語っている
特にドゥルーズとガタリにおいて明らかである
自分の時代に敏感で、その哲学的思考が時代の深い意味を掴む能力に基づくとされる哲学者にしては意外である
0 件のコメント:
コメントを投稿