2020年1月29日水曜日
哲学と哲学史(5)
今日も昨日の続きを読んでみたい
テーマは、ジャンル(D)の学説史にはどんな価値があるのかについてである
学説史は一つのものの後に別のものが来るので、何かを知った印象を与えるためか人気がある
しかし、専門の哲学者の目には良く映らない
事実、学説史は歴史的、哲学的探求が成されないまま教義を単純に並べたものとして提示される
まず、学説史はジャンル(C)の「物語としての哲学史」と共通点がある
しかし、学説史の物語は(C)とは対照的に大きな物語がなく、退屈の連続でしかない
そこには思索の活力も、学説の発展に必要な理由が齎す哲学的な意義もない
従って、簡単に逸話に陥るのである
第二には、そこにあるのは現代の哲学的問題であるよりは、月並みなすぐに哲学的だと分かる問題である
例えば、人生の意味、善悪の区別、最良の政治体制というような問題である
「プラトン、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲル、ベルクソンにおける人生の意味」といった具合である
第三には、哲学的主張とそれが生まれた議論を分断する
それを支持する理由を挙げずに、結果だけを示す傾向がある
学説史家はアプローチの多様性や哲学的思考のダイナミックな性質に鈍感なのである
結局、学説史はこれといった理由のないテーゼのカタログに過ぎない
唯一の価値は、覚書になるということである
プイヴェ氏の学説史の評価はかなり低いようである
(つづく)
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