2021年9月12日日曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(3)
































わたしは自然を好む隠遁者の自由も、人間を好み、彼らにもかかわらず、そして彼らのために自由になることを知っていたソクラテスの自由も持ち合わせていなかった

わたしの哲学者としての自由な活動は、すべての忙しさを離れて行われる瞑想であるが、それが行われたのはやらなければならない活動の休みとか余裕がある時だけだった

やらなければならない社会的、職業的義務を細心の注意を払ってやり遂げながら、わたしは決して理解しようとすることを止めなかった

今日、わたしはソクラテスが亡くなった年を6歳超えてしまったが、わたしは「理解した」、すなわち「意味」を把握したと言えるだろうか

人間の意味、人間とそれ以外の生の意味、世界の意味、存在の意味を

そんなことはない

わたしはこれまでにも増して問い掛けをしているところだ

その数が増え続ける科学的知と比べて、「哲学的」と言える知を何も引き合いに出すことがわたしにはできない

しかし、わたしは哲学者である

哲学とは「常に問い続けること」ではなかったのか



確かに、知者も問い掛けるが、やがて止める

ガリレイは、どのような法則によって物体の落下を言い表すことができるのかを自問する

そして彼は、移動にかかる時間と運動の加速に依存して移動する空間を推定する方程式を確立する

しかし、空間とは何なのか、時間とは、運動とは何なのかに関しては問わなかった

これらの問いは哲学者に残されているのである

パスツールは、一部は発酵の原因として、他のものは感染症の原因として生きたオーガニズムを特定したが、「生きている」とは何なのか、「生命」とは何なのかに関しては未解決のままである

道徳の講義の中で、教師は我々自身に対する義務、他者に対する義務を述べる

しかしそこでは、その基盤が確立されていない「義務」という概念が前提として了解されている

法律家は正義の提案を明言するが、その権威を引き出す権利の源泉は何なのか

これも哲学者の討論に任されている








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