2021年9月22日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(11)
























しかし、古代ギリシアの哲学者の間でも、人が置かれた時期によって興味が移り変わる

ある人は、マルクスがエピクロスについて博士論文を書いた時から、おそらく不適切にも「唯物論者」を呼ばれる哲学者を調べる

超越の迸りにより動かされた他の人は、ジャン・ヴァールが言ったように、新プラトン主義者に向かう

しかし、ニーチェは挑発としてこの言葉を発する(わたしは現在形で語る、なぜならニーチェは昨日のものである以上に今日のものだからである)
真のギリシアの哲学者は、ソクラテス以前の哲学者である

そしてニーチェは序列を付けるポーズで、ソクラテス以前の哲学者を彼らの後に来る者より必然的に優れていると言う

彼らはすべて、人々や習慣から離れて生きる秀でた人たちである。成熟し、陰鬱になるくらい重々しく、ゆっくりものを見る視点を持ち、政治や外交に暗いということも全くない。彼らは賢者の前に「ものこと」のすべての重大な概念を発見し、これらの重大な概念を表現し、そしてそれらを体系に還元する。この突然の原型の増大、哲学的理想のすべての偉大な可能性を完全なまでに作り上げるこの無意識のやり方より高度なギリシア精神を示すものは何もない。 

ところで、ニーチェはヘラクレイトスに傾いており、こう言っている

わたしが善悪を超えた神の遊びとしてこの世界を思い描く時、ヘラクレイトスがわたしの先駆者である

 ヘルマン・ディールス版の断片52を思い起こしてみる

時間はチェスの駒を動かして遊ぶ子供である。子供の王国なのである

しかし、「在る」ことを前に初めて驚いたのはパルメニデスである

ヘラクレイトスが「哲学の正真正銘の困惑」に他ならない「弁証法の方向への第一歩」を記した以上、ハイデッガーもまた、「より深く、より本質的である」と判断してパルメニデスに傾いている

このように、振子はヘラクレイトスとパルメニデスの間を揺れ動いており、それは哲学が続く限り続くだろう







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