2021年9月15日水曜日

コンシュ「哲学とその向こう側」(5)
































体系には信奉者がいた

ルクレティウスの詩は正真正銘のエピクロスに対する信念で支えられている

そして、いろいろな程度の正当性を持ちながら、ストア主義者、デカルト主義者、スピノザ主義者、カント主義者、ヘーゲル主義者などがいたが、モンテーニュが言ったように「真理はただ一つだけである」

哲学的な「科学」と言われるものは、間違った科学にしか過ぎない

「哲学」を論理学、認識論のような特定の分野として理解しない限り、そして本来の意味での哲学すなわち形而上学ではないと理解しない限り、哲学的知はないと言わなければならない

哲学は科学として不可能なのである

なぜそうなのか

それを説明するためには、ソクラテスのいくつかの言葉で十分である

彼はエピクロスの前に、死には何ら恐れるものはないと言っている
持ち合わせていない知を自分のものであると主張するのでなければ、死を恐れるとは、実際のところ、どういうことなのか

知らないことを知っていると信じることではないのか

なぜなら、結局のところ、死とは何かも、それが最も誠実な人にとって偶然でないかどうかも誰も知らないからである 

しかし、あたかも死が最大の不幸であることを知っているかのように、死を恐れるのである 

死が何を意味しているのか我々は知らない

生きているのか、いないのか

生命の炎が消えるのか、あるいは新しいものと入れ替わるのか

しかし、死とは何かを知らないのであれば、我々は人間とは何かも知らないのである

人間とは何であり得るのだろうか

同様に、人間は何をして何に耐えるのが相応しいのだろうか

誰がそれを他のものと区別するのだろうか

プラトンは我々に言う

「人生を哲学して過ごしている人が求めているもの」がそれである

しかし、人間の科学、起こり得る人間の運命に関する知はない

わたしは常に理解しよう、自分自身を理解しようとしてきたと言った

何よりもまず、「何を望むことができるのか」という問いに答えることができるように

しかしそれに対して、知識である答えはない

信念以外の答えはないのである






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