2021年9月6日月曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(25)




















魂の運命について、わたしがその消滅と非存在に対して疑問を抱き、躊躇することに、おそらく皆さんは驚かれるだろう

しかし、それは理性による躊躇である

わたしは、わたしのものであった形而上学的ニヒリズムを再び問うことをしない

むしろ、わたしがそれを問題にするのは、それを確認するためである

わたしは「無神論者」でさえない

なぜなら、わたしは「神」という言葉を発していないからだ

それは対象がないのに言うための言葉である

まず、必然的に結び付いているとは到底言えない「至高の存在は存在するのか」という問いと「魂は不死か」という二つの問いを分ける必要がある

一方については、わたしが言ったことに止めることにしたい

もう一方については、「経験から得た確信」と非存在としての死についての長い瞑想によって、魂の消滅を認めるように教え込まれているとはいえ、わたしは距離を取り、拒否し、躊躇っているというのが本当のところである

自問しているのである

そしてすべてについて、このことは考慮されるべきである

すなわち、わたしが理解しているニヒリズムは、独断的では全くないということdえある

それは、避けられない懐疑主義を背景に定義された、考え抜かれた選択肢である

それは、決して硬直化しない懐疑主義、自分自身に関して懐疑的であるという懐疑主義に属するものである

モンテーニュは、1576年の懐疑的危機の後、それが普遍的であるという点で、この懐疑主義に反抗する

彼はそこに限界と疑うことができないものがあることを発見する

それは、正直、誠実、親切というような道徳的価値であった





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