つまり、人間の謎は常にここにある
そして、常に再び始める試みとしての哲学も同じである
ところで、常に再開することにどのような意味があるのだろうか
意味は結果の中にはない
なぜなら、哲学はどのような「結果」を報告できるだろうか
また、意味は何かしらの進歩の中にもない
なぜなら、古代ギリシアから哲学はどのような「進歩」を遂げただろうか
もし哲学それ自体が<検証、省察、問題提起>(σκέψις)であるとすれば、それは終わりなき探求である
しかし、探求の意味は発見ではないのか
運動の意味は辿り着くことであり、休息ではないのか
それが必要だとは思えない
運動が意味を持つためには、目的がある必要はない
方向性があれば十分である
それは弱められたもの、坂道かもしれない
探求があり、方向性の決まった運動がある限り、哲学する意味がある
それは、行く先を知っていることを意味しない
否定的な意味で、どこに行かないのかだけを知っていることを意味している
ハイデッガーが言ったように、哲学の道は「どこにも導かない道」、林道(Holzwege)である
どこに行くのか、どこから来るのかを知って哲学するのであれば、それはもはや哲学ではなくイデオロギーである
その昔、『哲学的オリエンテーション』の序にわたしが書いたものがここにある
我々は、どこに行くのか、何に向かうのかも知らず、しかしとにかく、どこに行くべきでないのか、どの道が我々のものでないのかは知りながら、我々自身の奥にうしろに進んだのである
うしろに進みながら、我々は少しづつ明らかになる道を旅する
どんな道か
あとにならなければ、それは分からない
哲学者はうしろを振り返ることにより、少しづつ自分を定義するのである
彼は「わたしは誰なのか」と自問する
それは最後にならなければ分からない
死という偶然の出来事とともに外から訪れる終わりの時まで
つまり、道は力によって終わりを迎える
そして、それが道だったのである
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コンシュさんの「懐疑主義と哲学の意味」、このあたりで終えることにしたい
最後は、わたしが今描いている哲学のイメージとかなり重なるところがあった
このイメージを見るために、これまで読んできたのだろうか
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