2021年9月8日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(27)


























つまり、人間の謎は常にここにある

そして、常に再び始める試みとしての哲学も同じである

ところで、常に再開することにどのような意味があるのだろうか

意味は結果の中にはない

なぜなら、哲学はどのような「結果」を報告できるだろうか

また、意味は何かしらの進歩の中にもない

なぜなら、古代ギリシアから哲学はどのような「進歩」を遂げただろうか

もし哲学それ自体が<検証、省察、問題提起>(σκέψις)であるとすれば、それは終わりなき探求である

しかし、探求の意味は発見ではないのか

運動の意味は辿り着くことであり、休息ではないのか

それが必要だとは思えない

運動が意味を持つためには、目的がある必要はない

方向性があれば十分である

それは弱められたもの、坂道かもしれない

探求があり、方向性の決まった運動がある限り、哲学する意味がある

それは、行く先を知っていることを意味しない

否定的な意味で、どこに行かないのかだけを知っていることを意味している

ハイデッガーが言ったように、哲学の道は「どこにも導かない道」、林道(Holzwege)である

どこに行くのか、どこから来るのかを知って哲学するのであれば、それはもはや哲学ではなくイデオロギーである

その昔、『哲学的オリエンテーション』の序にわたしが書いたものがここにある
我々は、どこに行くのか、何に向かうのかも知らず、しかしとにかく、どこに行くべきでないのか、どの道が我々のものでないのかは知りながら、我々自身の奥にうしろに進んだのである

うしろに進みながら、我々は少しづつ明らかになる道を旅する

どんな道か

あとにならなければ、それは分からない

哲学者はうしろを振り返ることにより、少しづつ自分を定義するのである

彼は「わたしは誰なのか」と自問する

それは最後にならなければ分からない

死という偶然の出来事とともに外から訪れる終わりの時まで

つまり、道は力によって終わりを迎える

そして、それが道だったのである



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コンシュさんの「懐疑主義と哲学の意味」、このあたりで終えることにしたい

最後は、わたしが今描いている哲学のイメージとかなり重なるところがあった

このイメージを見るために、これまで読んできたのだろうか










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