2016年11月3日木曜日

研究のスタイル、研究者の哲学



先日の大阪の会で感じていたことが、いくつか浮かび上がってきた

一つは研究のスタイルに関することである
それは研究者が研究に対して持っているイメージの違いによるものだろう
意識しているか否かは別にして、研究者の哲学の反映になる

一方に、一つのことが見つかると、それを外にどんどん広げていくタイプがある
財力、人力を投入する大企業のやり方にも通じる
しかし、研究がざわざわと五月蠅くなるという印象がする

それに対して、一つのことの内に向かう静かな印象を与える研究もある
エッセンスに向かおうとしているように見えるという意味で、哲学的にも映るやり方である
アーティザナルにも見えるこのグループはどんどん少なくなっているが、私の好みのタイプになる

もう一つの対比も研究者の資質に関するものである
それは、一方の特徴が顕著に表れている研究者に気付いたことから明らかになってきた
その特徴とは、それらの研究者の中から見えてきた利他的態度である
自らの持てる知識、自ら明らかにした方法を積極的に人々に提供しようという姿勢である
外国人が入ると、その特徴がより明確な形で見えるようになる
今回、そのような研究者に対する共感が湧いてくるのを感じたので、そのことに気付いた

知的な活動とは、本来そうあるべきなのだろう
お互いの頭の中を提示して、交換し、批判し合うこと
それを意識してやることこそが知的活動の根になければならないということである
その基礎は日常的な会話の中にあるように見える
それが彼らとわれわれの間にある大きな違いにも見える

奈良の懇親会の席で彼らが語っていた中にも同様の言葉があった
それは、殆どの問題は会話することによって解決するというもの
解決しないまでも、そこに向けての糸口が得られることは少なくないのではないだろうか
口が重い身としては、耳に痛い結論であった





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