2022年1月4日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(35)

























パスカルの2つの無限のもう一つの側面、すなわち大きさの無限に向き合ってみよう。

自然はそれ自身によってしか境されていないので、もし自然の創造性が無限であるとすれば――古代ギリシアの何人かが考え、そのように見えるのだが――、自然が際限なく自らの姿を現し、すなわち自然が無限に大きく、天体物理学者が考えるささやかな宇宙に制限されることのないものとして、際限なく展開するものと思わなければならない。

経験はこの考えを支持している。

なぜなら、我々の限られた興味のためにそれを「見ること」が妨げられない時、仕事や役割から解放し、懸念で閉じた世界を剥き出しにし、自然が与えるように自然に開くことが可能だからである。

パスカルは、自然が与えられたものを超えて無限に広がるものとしてそれ自体を与えるという恍惚の経験を書いた(fr. 72 Br. )。

パスツールも、エミール・リトレの跡を継いだアカデミー・フランセーズ会員としての受諾講演で、実証主義者とは反対に、無限が最も実証的な概念であることに気付き、このような経験に訴えている。

確かに、わたしが窓を開け、わたしを取り囲む田舎――それはわたしに開かれたものなのだが――に目をやる時、それは直ちに無限の中の自然ではなく、わたしを取り囲む世界、すなわち、わたしの環世界(Umwelt)である。

それは組織化された全体である。

なぜなら、空、森のある丘、そして畑は、どのようにでもよいようには配置されておらず、ある秩序の中にある。

しかし、このようなゲシュタルト(全体の形)は無限の背景の上に与えられている。

この形、感知される世界は、パスカルの言葉に肖るとすれば、その全体性の中で背景に提示された自然の表情である。













0 件のコメント:

コメントを投稿