科学者が必然的にそこに認める統一性のお陰で、宇宙はわたしが世界と呼んでいるもの、すなわち、何らかの有機的なやり方で出来ている全体(holos)、あるいはすべてが結び付いている全体を指している。
草の葉の100分の1プースを厳密に理解するためには、宇宙を理解しなければならないとよく言われたことをフィリップ・フランクは我々に思い出させてくれる。
これは、わたしが自然を世界――それは組織化され有限で、いずれにせよ閉じている――にすると呼んでいるもので、その古代のモデルはストア派の宇宙(cosmos)である。
ハイゼンベルクは「科学は人間によって作られた。この自明の事実は容易に忘れられる」ことを我々に喚起してくれる。
それでは、人間は何をするのか。
人間は自然を「有限にする」のである。
「我々だけのために、有限はある」とニーチェは言った。
さらに加えて「全体、統一性を取り除くことがわたしには重要に見える」と言った。
そこからこのメモが生まれる。
「『混沌即自然』(Chaos sive Natura)、自然の非人間化」。
いくつか引用がある。
ポアンカレを引用する時、わたしはポアンカレの権威の下に身を置く。
ニーチェを引用する時には、ニーチェの権威下に身を置くことはない。
わたしが考えていることが表現されているのを見付けて喜ぶだけで、わたしはその言葉を借りる。
自然を人間化し、自然を世界の中に有限化するという事実によって、無限という考えを排除した途端、科学は錯覚の原理になるのである。
なぜなら、科学は物理学者の宇宙――上に述べた自然――を考えるようになるからである。
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コンシュさんが考える「自然」、「宇宙」、「世界」の違いが見えてきたように感じる
この中で自然が最も大きい――と言っても無限なので表現のしようがないのだが――もので、本来は宇宙も同じように考えている
しかし、科学は「宇宙」の中から組織化され、閉じているものを取り出して「宇宙」と称している
それはコンシュさんの言う「世界」と同じものだろう
科学は無限の概念を排除し、有限の「宇宙」を相手にする
どうもニーチェは科学のこのやり方に異議を差し挟んでいたようだ
ところで、コンシュさんがニーチェと対した時に感じたことの中に、わたしが発見したことが含まれていて嬉しく思った
それはコンシュさんが考えていたことをニーチェも考えていた、ということである
このような経験をわたしも多くしてきたので、「読書をするのは、自分が何を考えているのかを知るためである」というフォルミュールを作った
さらに言えば「読書は己を知るために欠かせない作業で、魂の鍛錬になる」となり、これまでにも何度か触れてきた
つまり、ソクラテスの教えに従って、己を知ることが生きる意味だとすれば、過去人の考えに触れることは、まさに人生の意味を満たすためことに繋がるのである
コンシュさんはそこまでは言っていないが、、
それを言えば、このような言説をあまり見たことはないのだが、、
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