従って問題は、そこで自由が可能になるように自然を理解することである。
それはまさしくエピクロスの問題であり、原子の中に自由を位置付けることにより、彼はこの問題を解決したのである。
リュキアのオエノアンダのディオゲネス(2世紀のエピクロス主義者)は言っている。
「君は、デモクリトスは発見しなかったが、エピクロスが明らかにした原子の偏りから成る自由な運動を原子もしていることを知らないのか」(fr. 32 Chilton)
しかし、自身の唯物論によって、エピクロスは原子の自由を真に想定するのを妨げられ、キケロ、それからモンテーニュはエピクロスのクリナメン(原子の偏り)を揶揄わずにはいられなかった。
しかし、すでに見たように、自然を物質に還元すべきではない。
この物質とは、マクロのレベルで常識に訴える自然に過ぎない。
もし、微細なレベル、無限に小さい物理的なレベルにある、プランク定数が支配する自然の深みにまで下っていくと、人間のレベルであったもの――物質、ラプラスの決定論、時空の枠組み、局所実在主義――はなくなるのである。
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