いろいろと寄り道をしたが、久し振りに現代哲学の問題に戻ってみたい
今日は「精神と魂と身体」の2回目となる
1回目は3月25日で、こちらになる
プロローグ:デカルト(1)
デカルトの第二省察のこの一節はよく知られている
わたしは、それなしには存在し得ない身体と感覚にそれほど依存しているのであろうか。しかしわたしは、世界には何も存在しないこと、天も地も、如何なる精神も身体も存在しないことを納得した。従って、わたしが存在しないことも納得したのではなかったのか。とんではない。もしわたしが納得したとすれば、あるいはわたしが何かを考えたとする場合にだけは、わたしはきっと存在したのである。しかし、常にわたしを騙すことにすべての策を弄する、それがどんなものかは分からないが、非常に強力で、非常に抜け目のない騙し屋がいるのである。従って、もしわたしが騙されるとすれば、わたしが存在することに疑いの余地はない。彼が望むだけわたしを騙すようにさせなさい。わたしがひとかどの人物であると思う限り、彼はわたしを何ものでもないようにはできないだろう。その結果、そのことを十分に考え、すべてのものを注意深く検討した後、わたしがそのことを口にし、あるいは精神の中でそれを理解する時にはいつも、わたしは在る、わたしは存在するという命題は必然的に真であることを最後には結論し、不変であるとしなければならないのである。 (拙訳)
このように推論して、デカルトはこころの哲学を考案した
なぜなら、このように存在を確認したところのものは、一つの精神であるわたしであり、それ以外ではないからである
それ以前にはこのことを誰も言っていなかったのか
このように言った人はいなかったようだ
ただ、プラトンやアウグスティヌスのような二元論の哲学者は存在した
彼らは魂と身体を厳格に区別した
ただ、神を除いた自分以外のすべての存在を疑った結果、「自我」が自身の存在を確認できるとは考えなかった
しかし、ある哲学史家は我々に警戒するように促す
デカルトの「自我」は近現代の哲学が語る「主体」ではないと
デカルト的自我は、中世思想に見られる魂の概念を受け継ぐと同時にそれと決別したものである
この自我は、テクストの注意深い読者であれば真のデカルトをそこに認めない概念的漂流の原因であった
*****************************************
(注)デカルトの三木清訳がネット上にあったので、参考までに以下に貼り付けておきたい
いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿