2020年4月28日火曜日
哲学における論理学の役割(2)
論理学と共に、あるいはそれなしで(2)
1960年代から80年代のフランス構造主義では、あらゆるジャンルの現象を理解可能にするアルゴリズムを発見したいと思う者がいた
モーパッサンの中篇を対象にしたA・J・グレマスから神話を研究したレヴィ・ストロースを経て無意識を研究したJ・ラカンまで
その際、モデルの役割を果たしたのが数学であった
「二コラ・ブルバキ」と呼ばれた数学者のグループは、数学の形式主義の一つの流れを発展させた
ブルバキ派の言葉は数学にだけ有用だったので、ブルバキ派の人たちに責任があるわけではないのだが
哲学者の中には、哲学においても構造や形式に興味を示すのがよいと主張する者もいた
このやり方は、哲学の「精神主義的」見方から抜け出る唯一の道であった
ミシェル・セールは、当時こう言っている
「ある文化的内容について、形式としてその内容を明らかにする時にだけ、解析は構造研究になる」
このような捉え方は殆どいつも、数学的概念や形式と構造の概念の隠喩的用法を生み出したのである
この点について、批判者は「知的詐欺」について語ることができたのである
特に、フランスの構造主義哲学者(ラカンの仲間)が使う数学的・科学的語彙は、冗長で見せかけのレトリックに過ぎなかった
いずれにせよ、数学は哲学者の間で評判がよいが、そこにはプラトンやデカルトが関係している
彼らは思弁が持つすべての長所を数学に付与したのである
特にフランスでは、数学に比して論理学は哲学者のネガティブな反応を引き起こす
この態度はかなり前まで遡ることができ、デカルトに既に存在している
コンディヤックやオーギュスト・コントにも見られ、コントの影響は強いものがあった
さらに20世紀初め、論理学の擁護者B・ラッセルとH・ポアンカレの数学における証拠についての論争の中にもあった
論理学に対する敵意は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリで極限にまで達した
彼らは、哲学の子供じみた考えを作り出すとして論理学を非難した
実際に悪く言われたのは、哲学におけるすべての形式的方法である
形式主義はしばしば素朴で単純化されたものとして考えられていた
論理学は真に自由な思考のためには束縛となるものではないのか
むしろ哲学者には、「真に哲学的な」、哲学に特有の論理学を提示することではないのか
それは、形式的な規則にしか興味を示さない論理学者の論理学とは異なるものである
(つづく)
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