2020年4月20日月曜日
精神と魂と身体(9)
ご無沙汰してしまったが、再び『現代哲学』に戻ってみたい(前回はこちらから)
アリストテレスの帰還
同じ前提を共有している二元論者と反二元論者は、世界最高の好敵手である
両者は共に、根本的な問題は精神(心的特性)と身体(物理的特性)の関係であると考えている
彼らは二つの特性が全くの別物であるとするか、同一性から付随性に至る関係を確立しようとする
それを完全な還元可能性なしに行ったが、その間には不完全な還元可能性を持つ異なる形がある
精神が占める位置はどんなものなのか
純粋な精神的実在なのか
単なる錯覚、あるいはこころの科学が最終的に根絶するという「通俗的な」語り方に過ぎないのか
しかし、あらゆるジャンルにおける二元論者と唯物論者に共通するこれらの前提を拒否することができる
アリストテレスにとって、精神と身体の関係は問題ではなかった
彼は二元論者でも反二元論者でもなく、「四元(素)論者」だったのである
彼は思考と知覚の性質に関連する問題を検討した
精神と物質というぶつかり合うカテゴリーの中でではなく、四つの構成要素を含む大きな枠組みの中で
四つの構成要素とは、自然の物質、生き物、知覚する動物、理性的動物である
アリストテレスとトマス・アクィナスは、存在の物差しの特定のレベルを占める動物として人間を考えていた
動物は物理的身体が特別な種類の動物である
下のレベルが常に必要条件を構成しているとしても、それぞれのレベルは質的に還元不能である
魂は生き物を生き物たらしめているもので、人間の魂はある存在を人間にしているものである
この意味で、アリストテレスとアクィナスにはこころの哲学はないが、知覚する動物と人間に特有の生の説明がある
人間の生とはどのようなものなのか
これはよい問いになるだろう
しかしそれは、デカルトが我々に教えたことのすべてに戻ることにならないだろうか
わたしは考えるものである
今日では「主体」であって理性的動物でないと言われるものである
それ故、私の思考が私の身体とどのように相互反応できるのかを知ろうとする問題が出されるのである
ロックのように、物質がどのようにして考え始めることができるようになるのかを問うこともできるだろう
しかし、デカルトが魂と身体の関係を省察し、この問題を適切に問うたことが問題にされているとしてみよう
また、哲学の主要な問題は主体や主体の批判であるとは考えられていないと仮定してみよう
その場合、アリストテレスの「四元論」の意味が見えてくるかもしれない
このようにして、20世紀後半、アリストテレスやアクィナスの伝統が再び現れたのである
アリストテレスやアクィナスを特に読んだわけではない哲学者から衝撃が来た
その哲学者はウィトゲンシュタインである
彼がこころの哲学について独自の省察を行うことによりその根源的な側面を発見したように事は進行した
より正確には、アリストテレス・アクィナスの伝統に特有の「魂」の哲学についての省察である
少なくともすべてのイギリスの哲学者たちは、ウィトゲンシュタインをそのように理解したのである
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