『パリ心景』を手に取られた方から、次のようなメッセージが届いた
「これは過去20年余りの思索の纏めなのでしょうが、わたしはこれからの序章として読みたい」
そのような意味合いも込められているので、全く問題はないだろう
以前にも触れたが、まさにいろいろな読まれ方があることを確認する朝となった
今日もゲーテ(1749-1832)である
1826.1.29(日)
「彼(オスカル・ルートヴィヒ・ベルンハルト・ヴォルフ、1799-1851)がすばらしい才能を持ちあわせていることは疑うべくもないが、しかし、主観主義という現代病におかされている。私はそれを治してやりたい。・・・ヴォルフのような即興詩人が、ローマやナポリやヴィーンやハンブルクやロンドンなどといった大都会の生活を迫真的に描き、読者が自分の目で見ているのではないかと錯覚するほど生きいきと描き出せたら、みんなを喜ばせ、熱狂させるにちがいない。彼が、殻をやぶって客観的なものに通じれば、救われるさ。彼は想像力がないわけではないから、それだけの素質はあるのだ。ただ、すみやかに意を決して、それをやりとげる勇気だけが必要なのだよ」
「僅かばかりの主観的な感情を吐露しているかぎりは、まだ詩人などといえたものではない。しかし、世界を自分のものにして表現できるようになれば、もうその人は文句なしに詩人だ。そうなれば、彼は、行き詰まることもなく、いつまでも新鮮さを失わないでいられる。それに対して、主観的な性質の人は、僅かばかりの内面をすぐに吐き出してしまって、結局マンネリズムにおちいって自滅してしまう」
「後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代はつねに客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。このことは、文学だけでなく、絵画や他の分野においても見られるのだ。それに対して、有意義な努力というものは、すべて偉大な時期ならどの時期にも見られるように、内面から出発して世界へ向かう。そういう時代は、現実に努力と前進をつづけて、すべて客観的な性格を備えていたのだよ」
「それにまた、今どきの若い娘たちは劇場へ行って何をしようというのだろう? 劇場は若い娘などの行くべきところじゃない。修道院にでも行けばいいのさ。劇場の入口は、人生の機微に通じた男や女のためにだけ開かれているのだ。モリエール(1622-1673)が書いていた当時は、娘たちは修道院にいた。そこで、モリエールは娘たちのことなどまったく顧慮する必要がなかった。・・・しかし、今ではあの若い娘たちを追い出すことも難しいし、上演をやめるわけにはいかないとなれば、やはり、娘たちにはお誂え向きの弱々しい作品ばかり見せつけられることになるから、もっと利口になって、私の流儀を真似して、そんなものには見向きもしないことだ」
(山下肇訳)
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