今朝、『パリ心景』を見たという方から、「思わず手に取ってみたくなるような軽やかな装丁」とのコメントをいただいた
このような感想を持たれる方が多いようである
さらに、編集者の力の入れようが想像されるとあった
願わくは、このような本を実際に手に取り、お読みいただけると幸いである
さて、今日もゲーテである
「七十五歳にもなると、ときには、死について考えてみないわけにはいかない。死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝き続けているのだからね」(1824.5.2)
「フランス人がドイツの作家を研究したり、翻訳したりするに至ったというのは、じつに結構なことだ。彼らは形式の上でもモティーフの上でも制限されているので、外国へ目を向けるより仕様がないのだ。われわれドイツ人は、ある種の無形式のゆえに非難されるが、しかし素材においては、われわれは彼らよりもすぐれている。・・・とりわけわれわれの哲学の観念性は、彼らの歓迎するところだ。理念的なものならどんなものでも革命の目的に役立つのだからね」
「フランス人は悟性と精神は持ちあわせているが、根本的なものがないし、敬虔の念もない。その場その場で役立つもの、自分の党派に都合のいいものが、正しいものなのだ。だから、彼らがわれわれをほめるのも、われわれの価値を認めるからでは毛頭なくて、われわれの意見がその党派を強化できる場合に限られているのだ」(1824.11.24)
「重要なことは、けっして使い尽くすことのない資本をつくることだ。君のすでにはじめている英語とイギリス文学の研究において、それが得られるだろう。その仕事に自分を打ちこみたまえ。若いイギリス人たちと会うすばらしい機会を、いつも利用したまえ。君は古代言語を学ぶ機会を、青年時代に大方失ってしまったのだから、イギリス人のような有能な国民の文学に、手がかりを求めたまえ。とくに、われわれ自身の文学というのも、大部分は、イギリス文学が源流になっているのだよ。われわれの小説も悲劇も、ゴールドスミスやフィールディングやシェークスピアをのぞいて、いったいどこに源流があるのか? 今日でもドイツのどこに、パイロン卿やムーアやウォルター・スコットと肩を並べられるような大作家を、三人も見つけ出すことができるだろうか? もう一度くり返すが、英語をしっかり身につけ、有用な仕事に力を集中して、君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ」(1824.12.3)
(山下肇訳)
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