もしそれが本当で、ドゥルーズが言うように理性と感情が入り組んでいるとすれば、この本の著者にも分裂があったと想像される
わたしが小説を2つのセクションに分ける決断をしたのは、スピノザの魂にある分裂のためである
この小説の最初のセクションでは「考える」スピノザ(homo intellectualis)を描き、次のセクションでは「感じる」スピノザ(homo sentimentalis)を扱っている
スピノザの師フランシスコ・ファン・デン・エンデン(1602-1674)の娘クララ・マリアとヨハネス・カセアリウス(1642-1677)という人物も対比的である
クララ・マリアと永遠VS短さ、ヨハネスと無限VS有限という関連
最後もクララ・マリアは永遠の都ローマで亡くなり、ヨハネスは地の果、無限への入口のようなインドはマラバールで亡くなっている
全ての作家は美のために書いているとわたしは信じている
モティベーションはそれぞれだろうが、美しい本を書きたいと願っている
スピノザの哲学は倫理に重点が置かれ、美学を無視していると批判されてきた
彼の哲学には美が欠けており、不毛で退屈だと学者は言うのである
おそらく、そうだろう
しかしそれにも拘らず、彼の哲学は美――存在の美――を目指している
人々が適切に考え、きちんと(=幸福に、平和に、十全に)生きることを教えることを願った
スピノザは彼らの生を無限で永遠の美に変えることができると信じていたとわたしは確信している
それは、彼の日常が破門、住所不定、貧困、孤独の中にあり、美が欠けていたからかもしれない
わたしが本書を書いている時、彼の孤独に美を与えたいと願っていた
美しい本を書きたいと思ったのである
この本は「知性の時代」には軽蔑されるロマン主義の最も遅れてきた作品かもしれない
ここでは理性に対立するものとして、感情的なものが意図的に提示されている
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