午前中、本屋に顔を出す
予期せぬ出会いを期待して
この手の本を読まなくなって久しい
自分が原典に当たる過程でその文章に出会うのでなければ、インパクトが薄いからだ
間に一人入っているため、自分が発見したという感覚が生まれず、中に入ってこないからだろう
ただ今日読んだところ、引用されている人と言葉が自分の中にあるものと重なり、いい感じを持った
編者が哲学者であるために、選ぶ対象(嗜好)に共通点があるのかもしれない
纏まった時間を取れない時、ちょっとした移動の時などの思索の種として使えそうである
カフェで1時間ほど読んでから、植物園に向かった
1時間以上の滞在はお断りとのことだったため
それから2時間ほど、緑の中をゆっくり散策
以前であれば少しは盛り上がったのだろうが、今日は駄目であった
帰りに、こんな考えが巡っていた
見尽くしたとはとても言えないのだが、ここに来て目に見えるものに対する感受性が落ちているのではないか
そして、これからは目に見えないものにしか感じなくなるのではないか
もしそうであれば、無理に目新しいもの、珍しいものを探す必要がなくなる
マルクス・アウレリウスではないが、自分の内に向かうしかないのかもしれない
そう言えば、この言葉も『一日一文』にあった
そして結果論だが、これまでの10年ほどを、目に見えないものを見るトレーニングをしていたようにも見えてくる
もしそうだとしたら、何という適切で幸運な歩みだったのだろうか
これからの退屈になりがちな生活が、発見に満ちたものになる可能性があるからだ
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