1827.1.29(木)
「私はこまごまと手を加えたり、書きあらためたりしなくてはならない箇所があとからあとからと見つかって、今までかかってしまった。しかし、もうこのへんで十分なはずだ。今は郵便でだせるようになって、解放された気分で、何か他のことにうちこめるかと思うと、ほっとするのだよ。さあどんな運命にでも出会うがいい! ドイツの文化水準は、いまや信じ難いくらいたかくなっており、このような作品が長いあいだ理解もされず、反響もないままでいるのではないか、などと恐れないですむから、安心していられるのだよ」
「古代の詩には、題などついていなかった。詩に題をつけるのは近代人の習慣だよ。古代人の詩も、ずっとあとになってからはじめて、近代人の手で題がつけられたのだ。しかし、この習慣は、必要から生まれたもので、文学が普及をみたため、作品の名をあげたり、たがいに区別したりしなければならないのだ」
(詩人が必ずしもよい散文家ではないことについて)
「ことはいたって単純だ。散文を書くには、何か言うべきことをもっていなければならない。しかし、何も言うべきことをもっていない者でも、詩句や韻ならつくれるよ。詩の場合には、言葉が言葉を呼んで、最後に何かしら出来上がるものさ。それが実は何でもなくても、何か曰くありそうに見えるのだ」
1827.1.31(水)
(シナの小説を読んで)
「人間の考え方やふるまい方や感じ方は、われわれとほとんど変わらないから、すぐにもう自分も彼らと同じ人間だということが感じられてくる。ただ違う点は、彼らの間では、すべてがいっそう明快で、清潔で、道徳的にいっていることだ。彼らの間では、すべてが、理性的、市民的であり、あげしい情熱とか詩的高揚は見あたらない。・・・もう一つ違っているのは、彼らの世界では、人間あるところ、つねに外的自然が共存していることだ。池ではいつも金魚のはねる水音が聞こえ、小枝ではたえず鳥がさえずり、昼はいつでも明るく日が輝き、夜はいつも澄みきっている」
「私には近ごろいよいよわかってきたのだが、詩というものは、人類の共通財産であり、そして、詩はどんな国でも、いつの時代にも、幾百とない人間の中に生みだされるものだ。ある作家は、他人より多少うまく、他人よりほんの少しのあいだ抜きんでている、ただそれだけのことさ。だから、フォン・マッティソン(1761-1831)氏も、自分こそそのひとりだ、と思ってはいけないし、私にしても、やはり自分がそうだ、などと思ったりしてはいけないのだ。それどころか、詩的才能などというものは、そんなに珍しいものではないし、誰にしても、すぐれた詩をものにしたからといって、うぬぼれるだけの格好のいわれがある筈がない、ということを、誰もが心にきざみつけるべきだよ」
「何か規範となるものが必要なときは、いつでも古代ギリシャ人のもとにさかのぼってみるべきなのだ。古代ギリシャ人の作品には、つねに美しい人間が描かれている」
「もし、詩人が歴史家の説く歴史を、そのままくり返すだけなら、いったい詩人は何のために存在するのだろうか! 詩人は歴史をのり越えて、できるかぎり、もっと高いもの、もっとよいものを、与えてくれなければ嘘だ。ソポクレス(497/6 BC-406/5 BC)の描く人物は、すべてこの偉大な詩人の崇高な魂の何らかの意味での分身であり、シェークスピア(1564-1616)の人物もまたシェークスピアの魂の何らかの意味での分身なのだ。これは正しいことだし、またそうしなければいけない」
「こういう具合に、変えたり、改良したりするのは、まだ未完成のものを、たえまなく工夫することによって完成されたものに高める場合には、正しい方法だ。しかし一度作りあげたものを、幾度も新しく変えたり、ふくらましたりしていくのは、・・・ほめられたものではない」
(山下肇訳)
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