今朝は庭に出て、咲きかかっている花を写真に収めた
肉眼では分からなかったが、写真を見るとまるでソフトクリームのように見えるではないか
庭に降りる階段には10センチくらいの毛虫がいて、一瞬びっくりした
日向ぼっこでもしているのだろうか、全く動かない
気持ちよさそうに、と形容したくなるような景色であった
さてここで、先日見つけたスピノザ(1632-1677)の小説を少し読むことにしたい
今回は、最後の「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」から始めたい
全ての作家は、なぜ書くのか、なぜあるテーマを書くことにしたのかの解を求めている
それでは、なぜスピノザについて書くことにしたのか
この問いについて、それらしい説明をしてみたい
中学校の哲学の授業で初めてスピノザについて聞いた時、自分は彼について書くだろうと思った
その時の興味は彼の哲学にあったのではなく、ユダヤ人コミュニティから排斥され、レンズを磨いて生活した孤独な賢者に向かっていたのである
その後長く忘れていたが、2年前に彼について書くという考えが再び蘇ってきた
それから当時のノートや伝記を含めた多くの本を読み始めた
その中には、スピノザの最初の伝記作家とされるジャン・マクシミリアン・ルーカス(1636/46-1697)のようなスピノザの同時代人や、スティーブン・ナドラー(1958- )などの我々の同時代人の伝記(1,2)が含まれ、彼の哲学についての優先順位は低かった
ジル・ドゥルーズ(1925-1995)はスピノザ哲学の最良の解釈者だと思うが、『スピノザと表現の問題』の英訳者への手紙の中で、次のように書いている
「スピノザの中でわたしを最も惹き付けるものは彼の『実体』ではなく、有限な様態の構成である」
確かにこれは、哲学者だけではなく、小説家の興味を刺激するものである
実体や永遠なるものではなく、限定され有限な様態、すなわち我々自身や我々の周りにあるすべてのものである
ドゥルーズは別の本『スピノザ:実践哲学』で、次のように書いている
「『エチカ』は二度書かれた本である。一度目は定義、定理、証明、系の連続的な流れの中で、もう一度目は不連続で激しい破線の備考の中で。最初のバージョンの下にある二つ目のバージョンは怒りのすべてを表現し、告発と解放の実践的課題を説明している」
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