2022年7月5日火曜日

ゲーテの言葉から(14)























 船越 佳(1951- )『私は街を飛ぶ』(2022)



1週間程度のオフであったが、敢えて言えば1ヵ月ほどに感じられる

実際には永遠の中にいたという感覚で、それはまさに至福の中なのだ

これも今に集中するエネルゲイアの効果だろうか

その中で人と言葉を交わすということが加わると、その感覚をさらに増強させる

昨日ご一緒した方からも、至福の時だったというメールが届いていた

またの機会に期待したいものである


さて、すでに大昔に感じられるゲーテの言葉に耳を傾ける試みを再開したい

現代から一気に2 世紀を遡るといったところだろうか

それでは、始めたい


1827.2.1(木)

「私は、自然科学をかなり多面的に研究してきた。しかし、私の研究の方向は、いつもこの地上にあって私のすぐ周りに存在し、私が感覚でじかに知覚できるような対象にだけ向かっていた。だからまた私は、天文学には決して手をつけなかった。天文学では、感覚ではもはや役立たず、そればかりかこの分野ではきっと器具や計算や力学の世話にならなければだめだが、これは、優にそれだけのための一生を必要とするもので、わたしの本分ではなかったからだよ」


1827.2.16(金)

ヨハン・ヴィンケルマン(1717–1768)の『ギリシャ芸術の模倣について』について
「ときどき、彼が一種の手さぐりをしている箇所にぶつかるだろう。しかし偉大な点は、彼の手さぐりがいつでも何かを暗示していることにあるのだ。彼はちょうど、まだ新世界を発見してはいないが、すでにその存在を心の中で予感していたころのコロンブス(c. 1451-1506)に似ているよ。彼のものを読むと、何も学ぶことはないが、何かにはなる」

「さて、マイヤー(1760–1832)はさらに一歩進んで、芸術についての知見の頂点に達した。彼の『美術史』は不朽の作品だ。しかし、もし彼が青年時代にヴィンケルマンによって開眼し、この道を進まなかったならば、とてもこのようにはならなかっただろうね。だから、偉大な先駆者がどんなことを行うか、またこうした人をしかるべく利用することがどれほど意味をもつか、あらためてわかるだろう」


1827.4.11(水)

「私は大気につつまれた地球を、ちょうどたえまなく息を吸い、息を吐いている大きな生きもののように考えている。地球が息を吸いこむと、大気は地球にひきよせられる。そのため大気は地球の表面近くに集まってきて、固まって雲となり、雨となる。この状態を、私は水の肯定と名づけている。この状態が無際限につづけば、地球は水びたしになるだろう。しかし、地球はいつまでもそうさせてはおかない。地球はまた息を吐き出しはじめ、水蒸気を上の方へおいあげる。すると、水蒸気は上層の大気圏のすみずみにひろがって、希薄になるから、太陽の光がさしこんでくるばかりでなく、はてしない空間の永遠の闇までが澄んだ青色にすいて見えるのだ。この大気の状態を、私は水の否定と名づけている。なぜなら、逆の場合には、大量の水が上の方から下降してくるだけでなく、地球上の湿気も蒸発せず、乾燥もしないのに、この状態では、湿気が上の方から下降しないだけでなく、地球上の水分までが放散して上昇していくから。これが無際限につづけば、地球は、太陽に照らされなくとも、乾燥して干からびてしまうおそれがあるからなのだよ」


「君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。この二つの内の一方がどこで終わり、もう一つの方がどこで始まるかを知るのは、たしかにいつも困難なことではあるが、ともかく、そういう区別があることを知るだけでも、必ずわれわれの助けになる。これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。そして、この領域内で、あらゆる方向に進んでいき、自分の考えを確立すれば、この道をたどっても、近づきえないものから何ものかをつかむこともできるだろう。むろんこの場合でも、結局は、多くの事柄にはある程度までしか近づくことができないし、自然は、つねにその背後に何かしら間接的なものをひそめていて、それを究めることは人間の能力ではとうてい及ばないということを、認めることになるだろうが」


(山下肇訳)



▣ 最後の件などは、『パリ心景』でも取り上げているエピクテトス(c. 50–c. 135)の哲学を想起させる。













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