Jean Baptiste Dumas (1800-1884)
今日は、第7章「パスツールの伝記」の後半を読みたい
12月10日、ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン・ボナパルト、1808-1873)が大統領に選出
そして12月28日に、パスツールはストラスブール大学の化学教授として転任
家庭生活への思いが高じていた彼は、直ちに大学の総長に自己紹介と将来に向けての道筋を書いた手紙を送る
総長の娘を嫁にもらうためであった
この申し入れは快諾され、26歳と6カ月で結婚式を挙げた
30歳を過ぎ、リールに新設された理科大学の教授兼学部長に任命される
そこで、パスツールは愛する結晶に関する原理あるいは法則を確立した
それは、非対称性結晶は、有機物、生物の産物にしか存在しないということであった
つまり、非対称性は生物と無生物を分ける指標になるという仮説である
リールは酒造業の中心地であった
1856年夏、酒精製造所の成績が悪く、彼らはパスツールに助けを求めた
それを調べた結果、正常の醗酵ではアルコールが産生され、そこにある酵母は円形をしていた
しかし、異常な醗酵では乳酸が産生され、酵母は伸びた形をしていたという
翌年には、乳酸発酵についての論文を発表している
1857年10月、パスツールは高等師範の科学研究部長としてパリに戻った
ここで、生物自然発生の研究に繋がる酵素の起原に関する研究を始めたのであった
これが、有力な化学者で上院議員でもあったジャン・パティスト・デュマ(1800-1884)の依頼で中断される
当時、南フランスで養蚕農家が蚕病のために危機に瀕していたため、パスツールに依頼が来たのである
最初は分野違いなので断ったようだが、最終的には助手とともにラングドックに向かった
その結果、蚕は二つの感染に侵され、主要なものは遺伝性で、病原体は母蚕から微粒子の形で卵の中に入り子に伝わることが分かった
そこから、雌蚕とその蚕卵を隔離する方法を考案、感染性微粒子を排除することにより、蚕病は撲滅された
この仕事を終えてパリに戻った時、パスツールは46歳だったが、脳卒中になる
1週間の間、生死の間を彷徨い、言語障害と左側半身不随になった
そんな中でも科学アカデミーに出す報告を口述筆記、病後3ヵ月で再び南部に向かっている
メチニコフの見るところ、パスツールが若くしてこのような重病にかかったのは、主に精神的過労、大胆な説に対する激しい抵抗が引き起こす感情の激動によると推測している
(つづく)
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