2022年7月12日火曜日

ゲーテの言葉から(20)































昨日、『パリ心景』を読了されたという方から感想が送られてきた

この本は基本的にオムニバスである

しかし、恰も書下ろしのように全体が有機的に繋がっていて、思索の道筋がよく分かるとのことであった

さらに、著者の「楽しそうな語り口」が印象に残ったという言葉を読み、驚いた

自分では想像もしていなかったからだ

もし考える楽しさが滲み出ているとすれば、思索を希求している方には伝染する可能性があるかもしれない

そんな期待をしたところで、今日もゲーテ(1749-1832)に当たりたい


1828.11.18(火)

「イギリスの批評家たちが今日どれほど高いレベルに達しているか、どれほどすぐれた才能をもっているかを知って、たのしいよ。以前の杓子定規の傾向はもうすっかり影をひそめて、それに代わって偉大な特性ができてきている。最新号(『エディンパラ評論』)に掲載されたドイツ文学に関する一論文中、次のような意見がある。『詩人たちの中には、他の人が忘れたがっているようなことにいつも首をつっこみたがる傾向の持主がいる』とね。さて君はどう思うかね? これで、われわれの状況は一目瞭然だし、最近のわが国の文学者たちのほとんどはどう分類すればよいかもわかるというものだ」



1828.12.16(火)

「ドイツ人というのは、俗物根性から抜けきれないね。だから、彼らはシラー(1759-1805)の作品の中にも、私の作品の中にも、印刷されているいろんな二行詩のことを、いまだにぶつぶつ論争したり、どっちが本当のシラーの作であり、どっちが私の作なのか決着をつけるのが大事だ、などといっているよ」

「シラーと私のように、長年の間つき合い、同じ関心をもち、毎日のように顔を合わせてはおたがいの意見を交換していると、お互いに水魚の交わりができるので、個々の思想についてそれがどちらのものなのかといったようなことは、どだい、話にも話題にもなるはずがない」


「だいたいこの世界は、現在では老年期に達していて、数千年このかたじつに多くの偉人たちが生活し、いろいろと思索してきたのだから、いまさらあたらしいことなどそうざらに見つかるわけもないし、言えるわけもないよ。私の色彩論にしてからが、完全に新しいものだとはいえない。プラトン(427 BC-347 BC)やレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)や、その他たくさんの卓越した人々が、個々の点では私よりも前に、同じことを発見し、同じことを述べている。しかし、私も、またそれを発見し、ふたたびそれを発表して、混迷した世界に真理の入っていく入口をつくろうと努力したこと、これが私の功績なのだよ」

「それから、真理というものはたえず反復して作り上げられねばならないのだ。誤謬が、私たちのまわりで、たえず語られているからだ。しかも個人個人によってではなく、大衆によって説かれているのだからね。新聞でも、百科全書でも、学校でも、大学でも、至るとことで誤謬はわがもの顔をしている。自分の見方が大勢いると感じるから、いい気になっているわけさ」


「じっさい、ヴォルテール(1694-1778)のような偉大な才能ともなれば、書くものは何を書いてもたいしたものだ。あの厚顔無恥だけはまったくいただけないが」

「彼は高貴な人間だった。それほど自由で無鉄砲だったにもかかわらず、礼儀作法の限界をいつもわきまえていた」


(山下肇訳)


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12月16日の3つ目の言葉

わたしがフランスで感得したことと完全に重なっており、パリ心景』でも取り上げている

ゲーテがどんどん近くに寄ってくるようだ

その上で、どんなことでも自分で発見する(=自分が重要だと思うことを掬い上げる)ことが重要なのである

そして、それは「わたしの真理」となり、その先の真理への一つの材料となる

人類の遺産に対する態度がこのように固まってきたようである











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