Jean Baptiste Biot 1851
今日は、メチニコフ(1845-1916)の手になるパスツール(1822-1895)の人生を眺めてみたい
第7章「パスツールの伝記」である
パスツールの遠い祖先は農奴階級の百姓だったが、曾祖父の代になり96フランで自由の身となり、ジュラの山地に皮なめし工場を建てた
父はナポレオン軍に従軍、下士官で退役し、祖父も継いだ皮なめし業を継承した
ルイ・パスツールは1822年12月27日にドールという小さな町で生まれ、革と樫の樹皮の中で過ごした
ここで、天才についてのメチニコフの観察について紹介したい
彼が集めた資料によれば、天才は第一子には稀だという
例えば、モーツァルト(1756-1791)やワーグナー(1813-1883)は第七子、ショパン(1810-1849)は第四子、ボーマルシェ(1732-1799)は第七子、シェイクスピア(1564-1616)、ヴォルテール(1694-1778)、ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)は第三子、トルストイ(1828-1910)は第四子、ピョートル1世(1672-1725)は第三子、ナポレオン1世(1769-1821)は第四子であった
資料中、唯一の例外はゲーテ(1749-1832)で、17歳の母親の第一子だったという
パスツールも例外ではなく第三子で、幼少時からその才能を発揮することはなく、ただ勉強していたという
パスツールが学んだアルボアの学校長は、彼の性格の特徴として、規則正しく、強い熱意をもって正確に仕事をすることを挙げている
両親は彼が16歳の時に高等師範の予備校に送ったが、ホームシックになり一時期故郷に戻る
しかし、それからブザンソンの中学校に入学、バカロレアを得て、高等師範に2番で合格
20歳でパリに来てからはホームシックにかかることもなく、そこに終生留まった
24歳で物理学のアグレガシオンを獲得したが、高校の教授になるのではなく、高等師範の化学の助手の道を選んだ
そこで化学と物理学に関する学位論文を作成、25歳で2つとも通過させた
1848年2月、国王ルイ・フィリップ(1773- 1850)に対する革命が勃発、共和制が敷かれた
1848年革命という歴史の渦に巻き込まれたパスツールは国民軍に参加、共和制を守るという意志を表明した
この後、化学構造は同じなのに結晶構造が異なる酒石酸塩の研究に戻っていく
普通の酒石酸塩は右旋性であるが、パラ酒石酸塩にはこの性質がない
パスツールは、酒石酸塩の結晶は非対称だが、パラ酒石酸塩は対称性がある筈だと推論
しかし実験結果は、パラ酒石酸塩の結晶も非対称というものであった
そこで彼は、沈殿したパラ酒石酸の結晶を拾い出し、右方に非対称の結晶と左方に非対称の結晶に分けて偏光計にかけた
その結果、右に非対称のものは偏光を右旋させ、左に非対称のものは左旋させること、さらに両者が等量混合したものはその作用がないことを明らかにした
パラ酒石酸塩は右旋性のものと左旋性のものの等量混合物だったのである
当時の権威もお手上げだったこの問題を解決した彼は、まさにアルキメデス(c. 287 BC-212 BC)の「ユレーカ(ヘウレーカ)」状態だったようである
パスツール26歳の時のことである
この結果を知った、偏光に関する発見もあるジャン・バティスト・ビオ(1774-1862)は、彼を招いて実験させ、その結果を確認して感激したという
(つづく)
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