Jean-Martin Charcot (1825-1893)
今日は、第7章を読み終えたい
卒中の後、歩行の不自由と左腕の力が弱くなったが、知力は完全に回復した
彼は志願兵として国民軍に加わり、包囲されているパリを離れようとしなかったが、友人たちは父の郷里に行くよう勧める
パスツールのプロイセンへの憎悪は激しく、ボン大学が彼に贈った名誉称号を突き返した
フランスに普及しているドイツビールと競争できるように、醗酵に関する研究がビール製造の改良に寄与するよう計画した
1876年には、酒精醗酵に関するすべての研究を「ビールに関する研究」として発表
同年、コッホは炭疽病の原因として炭疽菌を明らかにしている
パスツールも細菌学の研究に向かっていた
彼の発見と多数の反対者との間の衝突では、激昂、熱中した闘士が容赦ない議論を展開したのである
特に、医学アカデミーでは、医者たちの科学的準備不足や実験方法の無知を容赦なく指摘した
そのため、医者たちは反撃の機会を狙っていた
そして、狂犬病ワクチン接種で死亡例が出た時、パスツールは殺人犯として告発されそうになった
その時、神経学者シャルコー(1825-1893)ら23名の教授が弁護に立ち、人心を鎮めたのである
このような問題がパスツールの健康に悪い影響を与えたことは想像に難くない
家族は彼をフランス南部のボルディゲーラに連れて行ったが、大地震により引き上げなければならなかった
パリに戻ると、彼の名を冠した新研究所の創立にエネルギーを注いだ
1888年、パスツール研究所の盛大な開所式が行われた
パスツールは66歳を越えていた
研究所に一室を与えられたが、最早実験の仕事はできなかった
そして72歳でその生涯を閉じた
彼の遺骸はパスツール研究所内に安置されている
(了)
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