2022年7月14日木曜日

ゲーテの言葉から(22)














カレンダーを見ると、今日はフランスの革命記念日になっている

もうかなり遠くに行ってしまったという印象が拭えない

さて、ゲーテ(1749-1832)である


1829.2.12(木)

「彼(ラグランジュ、1736-1813)は、じつに善良な人間だった。まさにそれあるが故に偉大だった。なぜなら、善良な人が才能に恵まれると、かならず世の中の救済のために道徳的な影響を及ぼすにちがいないからね。芸術家だろうが、自然研究者だろうが、詩人だろうが、あるいはどんな道を進もうが、そのことに変わりはない」


「厳格なもの、偉大なものとは、どういうことかをイタリアで学んだ」


「およそ偉大なものや聡明なものは、この世の中に少数しか存在しないのだ。国民にも国王にも反対されながら、自分の偉大な計画を孤立無援で貫徹した大臣たちがいた。理性がポピュラーなものになるとは、とても考えられないことだ。情熱や感情なら、ポピュラーになるかもしれないが、理性は、いつの世になってもすぐれた個々の人間のものでしかないだろうね」


1829.2.13(金)

「このようにして、ある民族はその英雄を生み、英雄は、汎心みたいに、先頭に立って民族の守護と救済にあたるのだ。同じように、フランス人の詩的な能力はヴォルテール(1694-1778)に集約されたのだよ。こういう民族の旗頭は、彼らが活躍する時代においては、偉大だ。後世まで、影響をあたえる人物もいるにはいるが、大部分は、他の頭にとってかわられ、次の時代には忘れられてしまうのさ」


「私にしても、もし自然科学で苦労しなかったら、あるがままの人間を知らずに終わったにちがいない。他のことはどれをとっても、あんなに純粋な直観や思考ができる筈がないし、感覚や悟性の誤謬とか、性格の弱さ強さなどを見つけ出すこともできないよ。つまりすべてのものは、多かれ少なかれ、屈折しており、揺れ動いており、多かれ少なかれ、人の意のままになるものだ。しかし、自然は、けっして冗談というものを理解してくれない。自然は、つねに真実であり、つねにまじめであり、つねに厳しいものだ。自然はつねに正しく、もし過失や誤謬がありとすれば、犯人は人間だ。自然は、生半可な人間を軽蔑し、ただ、力の充実した者、真実で純粋な者だけに服従して、秘密を打ち明ける」


「悟性は、結局、自然には到達できないのだ。神性に触れるためには、人間は自分を最高の理性にまで高めるだけの力がなければだめだ。神性は、自然と人倫の根源現象の中に顕われている。神性は根源現象の背後にひそんでいる。もともとそれは神性から出発しているのだ」

「しかし、神性は、生きているものの中に働いており、死んだものの中には働かないのだ。生成し変化するものの中にはあるが、生成の終わったもの、固まってしまったもの、の中にはない。だから、神性へ向かう傾向のある理性は、もっぱら生成しつつあるもの、生きているものだけを相手にする。悟性は、生成の終わったもの、固まってしまったものを相手にし、利用しようとするのだ」

「したがって鉱物学は、悟性のための学問、実生活のための学問といえる。つまり、その対象はもはや生成を止めた死んだものであって、そこでは綜合(ジンテーゼ)は考えられないからね。・・・われわれは仮説という想像の島々に向かって舟を漕ぎだすが、おそらく真の綜合は、おそらくいつまでも未知の大陸に留まるだろう。植物や色彩のようにきわめて単純な事態においてすら、何らかの綜合に到達するということが、どんなに難しかったかを想起すれば、それも別段不思議でもなんでもないのだよ」


(山下肇訳)








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