1830.1.3(日)
「妙な気持がするな。五十年前には、ヴォルテール(1694-1778)の支配していた言葉で、現在もこの本(ネルヴァル訳の『ファウスト』)が読まれていることを考えるとね。こういっても、君には私の胸の中を察することができまいね。それに、ヴォルテールやその同時代の偉大な人びとが、私の青年時代にどれほど権威をもっていたか、どれほど道徳の世界全体に君臨していたか、また彼らから自己を大切に守り、自己にしっかり立脚して自然と真の関係を保つために、私がどれだけ骨身を削る思いをしたかというようなことは、私の伝記(『詩と真実』)にはあからさまに書かれてはいないのだよ」
1830.1.31(日)
「私はしばらく前に彼(ミルトン、1608-1674)の『サムソン』を読んだが、これほど古代人の精神を伝えている作品は、近代のどの作家のものにも見当たらないな。これはじつに偉大なことだ。彼自身盲目であったことが、サムソンの状況をあのように真に迫った筆で描き出すうえで役に立っているのだ。ミルトンは紛れもない詩人だった。みんな彼に畏敬の念を抱かなければならない」
1830.2.3(水)
「彼(モーツアルト、1756-1791)が七歳の少年のとき、見たことがあるよ。ちょうど彼が旅行の途すがら、演奏会を開いた折だ。私自身は、十四歳ぐらいだったろう。髪をむすび剣ををおびた彼の幼い姿はいまもまざまざと覚えている」
1830.2.7(日)
「だが、何百万人もの生命と幸福をふみにじってきた男におとずれた末路が、これくらいのものだとすれば、彼に与えられた運命などまだまだなまぬるいものだ。復讐の女神(ネメシス)も、この英雄の偉大さを考えあわせると、ことここに至っても少しは手心を加えないわけにはいかなかったのだろうが。自己を絶対にまで高め、一切をある理念の実現のために犠牲に供することが、どれほど危険なものか、ナポレオン(1769-1821)は身をもって示してくれているのさ」
(山下肇訳)
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