2020年2月23日日曜日

エピステモロジー(6)



懐疑主義の挑戦(5)

懐疑主義の挑戦においては、知る人の知の活動を問題にする
つまり、それが何であれ、どのようにしてそれを知ったと主張できるのかを自問するのである
それに対する歴史的エピステモロジーでは、社会全体の現象としての知識の形成と発展を問題にする
同様に、宗教、芸術、文化、スポーツなどについても語るが、それは個人や個別の対象についてではない

懐疑主義の挑戦における知は、次のように定義される

 S が p であることを知るのは、次の場合で、次の場合だけである
 1.p は真である(真実の条件)
 2.S は p を信じている(信念の条件)
 3.S には p を信じるのに十分な理由がある(正当化の条件) 

まず、「S が p であることを知る」という命題知がある
「S がパリを知る」という直接知でも「S が自転車の乗り方を知る」というやり方を知るのでもない

懐疑主義の挑戦をする哲学者が検討するのは、特にその正当化の条件についてである
歴史的エピステモロジーの側は、知の歴史性、社会的・政治的条件を捨象してはその検討はできないと言うだろう
S の知は、歴史的発展のある時点における知識を定義するものに対応している
それは我々の間で同意された規範以外の何物でもない合理性についても当てはまる

こちら側の哲学者は、知識は実践であり、社会的規範によって有効とされる認識行動であると言う
知が形成され、発展し、議論される社会的・政治的実践の部分を引き離すことはできない
すでに出来上がった現実や合理性や真理は存在しない
彼らにとって、知識は社会的産物なのである


(つづく)







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