2020年2月20日木曜日

エピステモロジー(3)



懐疑主義の挑戦(2)

デカルトが『省察』の中で行ったように、私と私の信念、そして悪い霊しかないと想像してみよう
もし世界が私が信じるように存在し、あらゆる外的なもので満たされていれば、悪い霊は私の信念の原因になる
この懐疑的仮説をアップデートしてみよう

信念を持つ「私」を容器の中に入った脳とその心的状態に、悪い霊をニューロン刺激を制御するコンピュータに換える 
p を「冷蔵庫に牛乳がある」というような普通の信念であるとすると、このように推論できる

1.もし S が p を知っていれば、p は疑いようがない
2.懐疑的仮説が p は確かではないことを示す
3.その場合、S は p を知らない

懐疑主義の挑戦は、経験に基づくいかなる命題も疑いから逃れることはできないとするものである
命題 p が疑わしくなることがある
他の命題 q があり、S がそれを否定する有効な理由を持っていない場合である

例えば、S が容器に入った脳であったり、q が「S は悪い霊に騙された」であったりする場合
命題 q は、p に一致するという信用を完全に破壊するか、明らかに弱めるのである
これを「認識価値」(epistemic value)とか「保証」と言う

そうすると、S は p の信念における正当性を失い、p を知っているとは言えなくなるだろう
S が懐疑的仮説は真面目に取り上げるべきではないとする正当な理由を持っていないとする
その場合、懐疑主義の挑戦が知に関するすべての思い上がりと最も一般的な我々の信念の認識価値を叩くのである


(つづく)







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