2021年3月14日日曜日

吉満義彦、あるいは精神の中の場所








 

 

 

 

 

 

 

 

昨日はうん十年ぶりに市電に乗り、記憶の彼方に沈んでいた懐かしい駅名を聞いた

いろいろな感情を抱きながらその沿線で過ごした半世紀前が蘇ってきた

現場に入ることにより浮かび上がってくる記憶だ

それらの出来事も他の出来事と同じように時間軸を超えてそのあたりに転がっている

感傷を覚えることはなく、単に自分の中にあるかけがえのないその場所を確認する時間となった

 

そして図書館に寄り、吉満義彦全集に目を通す

殆どが貸し出されていて、残っていたのは1冊だけであった

この哲学者についてはよく知らないが、読まれているのだろうか

昨年、科学と形而上学の関係を殆どの現代人が考えるようには考えていないことを知り、興味を覚えた

彼が目指していたところが、わたしの考えていた科学と形而上学の関係に似ているように見えたからだろう

彼はこんなことを考えていたようである

例えば、「科学的探究の精神と形而上学的知性を如何に結び付けるのかという問題がある」

あるいは、「科学的精神は形而上学的精神と一であるべきだ」など

それで、もう少し知りたいと思ったのである


昨日湧いてきた感情をさらに振り返る

昔いた場所に身を置いても気分の高揚は全くなかった

人間はその時に自分の全世界としているものがあり、そこから一旦離れて戻っても以前の充実感は湧いてこない

これは10年ほど前にニューヨークを再訪した時にも感じたことである

それでは、今のわたしの全体はどこにあるのだろうか

どこに身を置けば高鳴る感情が湧いてくるのだろうか

あるいは、精神の中にその場所を確保したので、物理的な場所は関係なくなっているのだろうか





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