2021年2月4日木曜日

「科学の形而上学化」は「真に知る」ための有効な手段となる


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、エッセイを書いているが、小さいが重要な発見に結び付いた

それをフォルミュールにしたのが、今日のタイトルである

我々は何気なく「知っている」という表現を使う

言うまでもなく、我々の日常はそんな「何気なく」で溢れている

ここで「知る」を「真に知る」とさらに要求水準を上げてその意味するところを考えてみたい

そうすると、そこには哲学が必要になることが分かる

プラトンによれば、「真に知る」では個別の事柄ではなく、知るということ自体が問題になるからだ

つまり、知るということの本質が問われるのである

 

昨年、免疫の本質について「科学の形而上学化」を用いて明らかにした 

そこで分かったのは、この方法が「こと」の本質を規定する際に有効な方法になり得るということであった

真に知ることと本質が結び付いているのであれば、こう言うこともできるだろう

<「科学の形而上学化」は「もの・こと」を「真に知る」ための有効な手段になる>

これはプラトンの問いに対する一つの解になるということはないだろうか

そんな考えが巡っていた

変な話だが、それはトイレの中でのことであった

 

 




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