今朝、何気なくカレンダーを眺めていたら、ちょうど6年前の今日がパリでのスートゥナンスの日だったことを思い出す
それからさらに思索を続け、6年目に一応の纏まりを付けることができたことになる
本当に時間が掛かるものである
それでも「一応の」なのである
道は永遠に続いている
ところで、今朝は体の芯から冷えるなぁと思っていた
2時間後、暖房のスイッチを入れるのを忘れていたことに気付く
寒風が吹き込んでくる状態でよくも我慢していたものである
信じられないことが起こるが、これは何かが進行している証拠なのか
あるいはまた、古代の哲学者が考え事をして池に落ちたように、日常的に "absent-minded" の状態に入っているのだろうか
後者であることを信じたいのだが、、
さて今日も、コンシュさんに当たりたい
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唯心論は、絶対的精神は神であると我々に言う。
そして、神の属性を列挙する。
しかし、自然の方はどうだろうか。
神の存在を疑うことはできるが、アリストテレスが言うように、自然の存在を疑うことは「馬鹿げている」だろう。
感覚的な証拠においては、自然は敢えて言えば生身の人間にそれ自身を提供する。
しかし、我々は感覚を信用することができるだろうか。
デカルトはそうは考えなかった。
彼はこう言っている。
「わたしは感覚は間違えるということを時々経験した。我々を一度間違わせたものを完全に信頼しないことは慎重さである。」
しかし、感覚の証を拒絶する理由は、感覚が現実に我々を欺くから――この主張は正当化される必要があるのだが――ではない。
そうではなく、デカルトがこれから先は感覚的な確実さとは全く異なる確実性に彼の体系の基礎を置くことを決めたことである。
反対に、エピクロスは彼の体系を以下のような確実性の上に打ち立てた。
彼は言う。
「誤りや間違いは常に」感覚データに「意見が加えられたものの中にあり」、感覚データそのものの中にはない。
ルクレティウスは「感覚の誤り」と言われる多くの例を分析し、「誤りは我々の判断に由来し」、感覚そのものではないことを示した。
感覚の証は疑うべくもないのである。
その上、「我々に最初に真理の概念を与えたのは感覚である」とも言っている。
なぜなら、もし我々の目が見、我々の聴覚が聞いたこと、あるいはその反対を誰かが我々に主張した場合、その主張の正しさあるいは誤りは、我々にはすぐに分かるからである。
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