そこで、選択するためには何に基づくのか、という問題が生じる。
エピクロスも同じだが、デカルトによれば、出発点は必然的に、我々にとって余りにも明確に見えるので真であると認めないことが不可能であることの中にある。
デカルトは知的な証拠を、エピクロスは感覚的な証拠を考えていた。
しかし、証拠が常に真理の基準であるということにどのような保証があるのだろうか。
「欺かない」神に基づき反対のことを強く支持したエピクロスもそうだが特にデカルトの考えにもかかわらず、我々はそのような保証を持っていない。
我々に明らかに真に見えるものがそうでないことはあり得る。
「われ思う、ゆえにわれ在り」(Cogito ergo sum)は確かである。
つまり、コギトと共に、紛れもない真理を保有していると信じることは正当化されるだろう。
しかし、証拠は決して単なる事実ではないし、当然の確かさがある確実性は事実の確かさ以上のものではない。
我々は不確実性の中で哲学する。
モンテーニュは、我々はその状況で同じようによく哲学することを示した。
我々は普遍的に有効であると考える真理に辿り着く。
しかし、確信しているが、それが不確かなものであることを知っているので――なぜなら、確信は確実性ではないから――、我々は自分の真理を誰にでも押し付けようとすることを――それが説得によるものであっても――避けるのである。
そこから寛容の体制が生まれる。
形而上学的な多元主義を、そして我々以外の真理があることを認めるのである。
我々のものではないこれらの真理は、我々はそれを間違いだと思っているので、括弧付きの真理とするのではあるが、、
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