2021年12月13日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(18)
































少し間隔があいたが、再びコンシュさんの話に耳を傾けることにしたい

本を手に取る

なぜか新鮮だ


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感覚は「もの・こと」がそうあるものとしてではなく、我々の感覚器の構造が認めるものとしての「もの・こと」を我々に提示すると言えるだろう。

しかし、我々の感覚器の構造は、まさしく我々が見、聞き、、するもので、我々を取り巻くものを真に知ることを可能にしているものである。

木は視覚にとって緑なのである。

確かにそうだ!すなわち、視覚のお陰で我々は木がそうであるもの――緑――として見ている。

望遠鏡の助けを借りて、わたしは遠くの船に乗っている人を見る。

それは「望遠鏡にとっての」人と言うのだろうか。

ヒトはヒトの感覚で自然を感じ取る。

犬は犬の感覚で別の自然を感じ取り、ミツバチも同様に異なった感覚で異なった自然を感じ取っているといった具合である。

これらの知覚は、何らかの統一性を想定することと相容れないのではなく共存する――わたしは相互に補完するとは言わないが――ものである。

自然はまさしくそう見えるものである。

自然は表れなければならないことをあらゆる方法で解決する。

外見よりも深いものは何もない。

存在しているということ――多数の存在、分散した存在――は外見である。







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