2021年12月4日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(13)





この回答はわたしの考えをよく表現していた。

わたしが少なくとも家庭内においてはキリスト教の教育を受けていた時期、現実の全体は神、世界、人間という3つの要素から成るものとして提示された。

わたしはやがてこれらの要素の中の最初のもの、すなわち神を抹消した。

すべての「もの・こと」の源泉には全能で善なる神がいたが、これは地上で見るすべての悪や苦悩、特に「絶対」悪――つまり、我々がどのような視点から見ても正当化できない悪――とわたしが考える飢餓に曝され、虐待される子供の苦悩と相容れない。

これはまた、戦争における子供の運命に関する考えでもあり、わたしを徹底的な平和主義に導いたのである。

この平和主義に対する反対は良く知っていたがそれを拒絶して、わたしは自分の意見を決して変えることはなかった。

もし正当化できない悪の立場から有神論に反対の議論をしていなかったならば、超越的な神への信仰を守ることができたであろうか。

わたしはそうは思わない。

なぜなら、特に「聖なる」と言われている書物が人間の作品に過ぎないこと、そしてそれが意味するすべてのことを考えれば、わたしには「信じる」僅かな理由も見出せない。

もし聖書が神に霊感を得たものであるとすれば、その本は暴力的な神によるものに違いないだろう。










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