探しものではないものが現れる時、しばしば大発見をする
この偶然が何ものにも代え難いことを知って久しい
Youtubeに吉田秀和さん93歳の時の「言葉で奏でる音楽」という特集が現れた
それを観ていて驚いたことがある
自宅の庭で、作家の堀江敏幸氏と対談している
まず、椅子に座っている姿勢である
体が上の方に向くように、悪く言えばふんぞり返ったように座っている
これはわたしの普段の姿勢だとすぐに気付く
それはふんぞり返っているのではなく、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような感覚なのである
その全体を捉えたい、その全体の中でいまの話題を語りたいという姿勢である
吉田氏の場合はどうか分からないが、おそらくそうなのではないかと勝手に想像していた
もう一つは、その中で語っていた内容である
高等学校の時に好きだった独文の先生がいたという
阿部次郎の弟、阿部六郎(1904-1957)である
その先生からニーチェを知ったようだが、さらに重要なことを感じ取ったという
それは、人々が生きている世界とは違う世界があるということ
そして、その先生は世の中で活躍している人たちとはどこか違う別の世界を持っていたこと
さらに学ぼうと思い、阿部六郎宅に下宿までしたようだ
人の世の中を生き抜いている人では、そのことに気付けない
そこから離れた目を持っていなければならないからである
真の芸術家の視点とでも言うべきものが必要になるのだろうか
これは人間にとっても、社会にとっても非常に重要なことだと考えるようになっている
先日の「超世俗的」ともどこかで繋がっている
それから、聴いたことを正確に言葉で伝えるという仕事についての観察である
それは非常に難しいことだが、難しいが故に面白いと思ったという
同じことは、自分の頭の中にあることを正確に言葉に移すことにも当て嵌まるだろう
外国語を日本語に移し替えることだって同じである
殆ど不可能な作業なのである
そこに挑み甲斐のある仕事だと思った理由があるのだろう
阿部六郎宅に下宿していた時のエピソードとして、中原中也が出てくる
中也は最初のブログで何度か取り上げたことがある
少し長いが、その中の一つを以下に再掲してみたい
2006年11月14日
雨が止むのを待って県立美術館を離れ、歩き始める。バスが来たので目的地に行くのか運転手に訊いてみるが、よく理解できない。待ってくれているのでとにかく乗り込む。近くの老婦人に聞いてみる。「中也さんのところでしょう。温田温泉ですよ。」 と言って、まるで知り合いのことを語るように教えてくれた。気持ちよく、流れる景色を眺めていると、10分ほどで中原中也記念館に着いた。
中原中也 Chûya Nakahara(1907年 明治40年4月29日 - 1937年 昭和12年10月22日)
こじんまりしているが、手入れが行き届いていて美しい。中に入ると、正面で中也さんが迎えてくれた。東京に出た18歳の時に写真館で撮ったといわれる有名な写真が。
温田温泉で医院を開業していた父謙助 (30歳)、母フク (27歳) の長男として結婚7年目に生れる。「奇跡の子」 として大切に育てられる。小学校では勉強に打ち込んでいたようだが、次第に文学に興味を持ち始め、5年の時には短歌会に顔を出すようになる。それから次第に成績が落ち始めたようで、中学の時落第。うるさい父親から逃れるために落第し、京都の立命館に転校。17歳の時広島出身の女優の卵、長谷川泰子と運命の出会いの後、同棲をはじめる。その時期に富永太郎からランボーやボードレールを紹介されている。
彼の人生には、いろいろな人が顔を出す。
小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平
諸井三郎
古谷綱武
吉田秀和
青山二郎
坂口安吾
太宰治
北川冬彦
草野心平
萩原朔太郎
伊藤静雄
など
特に小林秀雄とは、中也が泰子と上京後に出会い、三角関係になり、彼女が小林の元に去るという事件以来、深い関係が生れる。今回、上京してからアテネフランセや東京外語大学でフランス語を本格的に勉強していたこと、また亡くなる年にも関西日仏学館に申し込みをしていたことなどを知る。ランボオの訳詩も展示されていた。
彼の人生は子供の時から死に取り囲まれていた。8歳の時、三歳年下の弟亜郎が亡くなる。中也は毎日、蓮華の花を摘んできては、「あーちゃんに」 と言って、仏様に供えていたという。また4歳下の恰三を24歳の時に結核で失う。「亡弟」 という小説を書いている。
それから自分の長男、文也も失う。これが相当応えたようだ。日記を見ると、文也に向けた男親の愛情に溢れる記述が見つかる。
「文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書き込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだって、僕の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやったんだ。」 (昭和11年7月24日)
文也が亡くなってから遺体を抱いて離さず、葬式の日以来位牌の前から離れなかったという。文也の霊に捧げた 「在りし日の歌」 の原稿を小林秀雄に託す。中也の死後出版される。
わが半生
私はずいぶん苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果たして価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。
とにかく私は苦労して来た。
苦労してきたことであった!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。
外では今宵、木の葉がそよぐ。
はるかな気持ちの、春の宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐ったまんまで、死んでゆくのだ。
La Moitié de Ma Vie
J'aurai eu jusqu'ici bien des peines.
Quelles peines, direz-vous ?
Je n'ai aucune envie d'en parler.
Quant à la question de savoir si ces peines avaient
Quelque vertu ou n'en avaient pas,
Cela ne vaut même pas le coup d'y penser !
Mais j'aurai eu bien des peines.
Oui bein des peines en somme !
Et voici que, maintenant, ici-même, devant mon bureau,
Je ne trouve plus que moi.
Sans broncher, j'allonge mes mains, les regarde, et c'est bein là
Tout ce que je peux faire.
Dehors ce soir, les feuilles des arbres frémissent.
Soir de printemps, aux lointaines émotions.
Et voilà que, doucement je meurs !
Oui, je reste assis, et je me meurs.
亡くなる3ヶ月前に阿部六郎宛に手紙を送っている。
「小生事秋になったら郷里に引上げようと思います。なんだか郷里住みといふうことになってゴローンと寝ころんでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」 (昭和12年7月7日)
四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。
Quatrain
Pour toi il est mieux de rentrer dans une chambre paisible
Laissant derrière toi les feux éclatants des nuits de la ville
Pour toi il est mieux de prendre le chemin du retour
Et d'écouter tranquillement les murmures de ton cœur
弟の思郎氏が中也の最後をその著書 「兄中原中也と先祖たち」 に書いている。
「母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。『おかあさん』 という声がでた。一層奇跡を思う。もう一度 『おかあさん』 と呼んだ。中也は自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして 『僕は本当は孝行者だったんですよ』 といい、『今に分かるときが来ますよ』 とつけ加え、数秒おいて 『本当は孝行者だったんですよ』 といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れて落ちた。」
長男が亡くなった1936年に次男愛雅が生まれている。しかし、その翌年10月に中也が亡くなり、さらにその翌年1月には生まれたばかりの愛雅が亡くなっている。それが彼の死後であったことがせめてもの救いである。
歸 郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
椽の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯れ木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍 (ろばた) の草影が
あどけない愁 (かなし) みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦 (としま) の低い声もする
あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
Retour
Sec les piliers et secs les jardins
Aujourd'hui il fait beau
Sous la terrasse une toile d'araignée
Bouge langoureusement
Les arbres morts respirent dans la montagne
Qu'il fait beau aujourd'hui
Au bord des chemins l'herbe dessine
Une ingénue tristesse
C'est mon pays
Un vent frais s'est levé
Pleure sans hésiter
Me dit à voix basse une femme plus âgée
Oh toi qu'as-tu fait.....
Me dit le vent qui vient souffler
二階の資料室に上がり、CDに入っていた母親フクさんの思い出話を聴く。
中学から詩にのめり込んだ中也の成績はどんどん落ちていった。本を買ってやるから駄目だというようなことを先生からも言われ、本から遠ざけるようにする。すると、彼は本屋に入り浸るようになり、帰りが遅くなったという。そして帰ってくる時は、遠くから 「今日は本屋に寄ったんじゃありませんからね」 と言ってから家に入ってきたという。そんなこと言わなくてもいいのに、という感じで遠くの息子を懐かしむように語っていた。
この話はフクさんの回想録 「私の上に降る雪は ― わが子中原中也を語る」 の中にも出てくるのかもしれない。
今回、中也の詩にいろいろな人が曲をつけ、いろいろな人が歌っていることを知る。諸井三郎が曲をつけるのはわかるが、大岡昇平も作曲している。また、友川かずき、伊藤多喜雄、おおたか静流、小室等、そして五木ひろし、石原裕次郎までもが歌っているのには驚いた。
来年は中也生誕100年、没後70年に当たる。記念行事が予定されているようだ。
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フランス語訳は以下の本からです。
Nakahara Chûya « Poèmes » traduit du japonais par Yves-Marie Allioux (Philippe Picquier, 2005)
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