2018年8月26日日曜日

マルクス・ヴュルシュを聴く



涼しい朝である
昨日のつながりで、マルクス・ヴュルシュ(Markus Würsch)という音楽家に出会った
スイスのトランペット奏者だ
チューリッヒのトーンハレ管弦楽団で主席を務めていた
経歴を見ると勉強家であることが分かる
現在はソリストと教育者として活動している

この曲は若き日によく聴いたもの
教会のオルガンとの演奏と映像が素晴らしい
その演奏の何と落ち着いていることか
最近、そこにヨーロッパ的なものを見るようになっているのだが、、













すでに秋、クロード・リッパースを聴く



本日は曇りの朝
午前中から外に出る
お昼に雨が降ったが、午後からは晴れてきた
穏やかな週末だが、涼しさを感じるようになっている
日本は関東以西がこれから9月初めころまで猛暑日とのことで驚く

トラムを待っている時のこと
資料を読んでいると、「まだ学校に行ってるんですか」と若い女性に声を掛けられる
いつまでも学生ですと答えておいた
彼女の意図はどこか別のところにあったようである

今朝出かける前、この音楽が流れてきた
初めて耳にするトランペット奏者だったので、ここで聴き直しておきたい
クロード・リッパース(Claude Rippas
柔らかい音色を持っている












2018年8月24日金曜日

今日も現れたサイクリスト



今日も完璧な快晴
今朝プロジェに関連する本を読んでいる時、昨夜思いついたことに関連することが現れ、驚く
やや興奮して少しだけ広げてみる

午後からプロジェに当たるため出かける
バス停で待っている時、年配の男性が話しかけてきた
いつまでも暑いとか、バスの運転手もまだバカンスか、などという愚痴だったのだが、、

先日の方針転換でプロジェにも気持ちよく当たることができた
アパルトマンに戻ると、昨日の男の子が颯爽と現れる
幸い、今日はカメラに収めることができた

こちらの気分もよくなる夕暮れ時である





2018年8月22日水曜日

平和な朝




今朝も文句のつけようのない快晴

予定を変更して、向いの景色をたっぷり味わうことにした

暫くすると父親連れの幼稚園児と思われる男の子がグラウンドの周りに現れた

ヘルメットをかぶり、小さな自転車に乗っている

そのうち、グラウンドの周りのコンクリートの道を全力で走り始めた

2度回ったところでお休みとなった

結構な運動になったのではないだろうか

この間、アパルトマンの前を通る時にタイヤとコンクリートの擦れ合う音だけが聞こえた

平和な朝であった







やっと今頃



今日は久しぶりに充実した時間を過ごすことができた
このような夜の空も気持ちよく眺めることができる

プロジェとは締め切りがあるもの、あるいは時期を切るものだと暗黙裡に思っていた
しかし最近、そんなものではないのではないかという気がしてきた
そうではなく、終わった時が締め切り、あるいは終わるまでやると考えるのである

この心理的効果は思ったより大きかった
プロジェに当たる時のストレスが全くなくなったのである
終わる時が締め切りなので自分をプッシュする必要がなくなるからだろう

締め切りを設けた時には、その制約のために自分の求めるものを切り詰める可能性がある
それがなくなり、じっくり「こと」の中に入り、満足がいくまでできるようになる
やっと今頃、一つのスタイルができつつあるということか

このことにこれまで気付かなかったのだろうか
これは昨日のダ・ヴィンチの考えとも通じるところがある 
暫くこの方針に従ってみたい





2018年8月21日火曜日

ダ・ヴィンチの目

      アンボワーズのダ・ヴィンチ


先週のルポワンは、ダ・ヴィンチ(1452-1519)が特集で取り上げられていた
500年前に亡くなった人物から現代的な意味を探ろうという企画である
目に止まったところをいくつか

彼はすべてを見ようとしていた
全てを見るということは、考えられているよりも広く豊かなものを意味している
それは、目の前にあるものについて瞑想することまでも含まれている

彼は30代半ばから多くの解剖をやっていた
ヒトだけではなく、サル、牛、カエルなども自分の目で見ることをやっていた
その過程でガレノス(c. 129-c. 200)やイブン・スィーナー(980-1037)を知ることになる
彼の視界から排除されるものは何もない

プラトンが説く我々の世界の外にあるイデアの世界を信じなかった
観察と実験を信じていたのである
そのためか、アリストテレスの自然科学に関するものをよく読んでいた

我々は流動性のある境界が曖昧な世界に生きている
ダ・ヴィンチも境界を越え、多くの領域に足を踏み入れた
そして、完成させることには無頓着であった
やり遂げるということは、そこで流れが止まることを意味している
彼の視線は止まることなく前に向かっていた

彼が開発したスフマートという技法は輪郭をぼかす
明確な輪郭で途切れることを避けたのだろうか
それは世界の流動性を表すものだったのかもしれない

そして、彼の人生に見られる終わることのない旅である
彼はノマドであった
幼少期のヴィンチ、青年時代のフィレンツェ、壮年期のミラノ、ヴェニス、ローマ
そして晩年になっても気候、文化、言語を変えることを厭わず、クロ・リュセに落ち着いた
この時は64歳でアルプスを越えてフランソワ1世の招きに応じている

重要なことは、歩むべき道をどこまでも追い求めて前に進むこと
根を持っていたとしても、それなしにやること、アイデンティティを超えて生きること
そして、未知に向かって歩むこと
ダ・ヴィンチはそのパイオニアであり、我々にとってのモデルになるだろう

彼にはまた、何か突飛なもの、異様なものに対する嗜好があった
それは驚きに対する嗜好と言ってもよいもので、瞬間の惠みを味わうことにも通じる
疲れ知らずで、昼間に仕事を終えた後、仲間と一晩中談笑していたという
そこでも不思議なもの、思いもかけないものが現れる瞬間を見逃さない目が必要になるのだろう



そういえば、書き終えたばかりのエッセイも500年前に亡くなった人物を取り上げていた
何という偶然だろうか





2018年8月18日土曜日

ジョージ・オーウェルの考え方



今日も快晴で、気持ちがよい土曜となった
先週、今週とル・ポワンは大物を特集として取り上げている
先週はダ・ヴィンチで、今週はジョージ・オーウェルだ
今日はオーウェルについて、少しだけ

彼はあらゆることに興味を持ち、宗教的ドグマを避け、イデオロギーの前に事実を重視する
生涯、検閲やブラックリストを嫌い、絶対的な表現の自由の擁護者であった
そして、真の分断は保守か革新ではなく、独裁・専制か絶対自由にあると考えていた


言語の退廃に抗するオーウェルの6つのアドバイスが載っていた

1.使い古されたメタファー、比較、修辞は使わない
2.短い言葉で済むのなら、長い言葉は使わない
3.削除してもよい言葉があれば、迷うことなく削除する
4.能動態が使えるなら受動態は使わない
5.日常の言葉で表現できるなら、外国語、科学用語、専門用語は使わない
6.明らかな破格語法になるのであれば、上記の規則を破る


オーウェルとチャーチルの伝記を書いたトマス・リックス氏のインタビュー記事もあった

  Churchill and Orwell: The Fight for Freedom (Penguin, 2017)

リックス氏は2度ピューリッツァー賞を受賞しているジャーナリストである
インタビューではこう語っている

オーウェルとチャーチルは、20世紀の最重要課題を次のように捉えていた
マルクスが言うような生産手段の所有でも、フロイトが考えた人間精神の機能でもない
それは、個人と国家の関係である
どんどん巨大化し、個人の領域に入り込む国家権力に対し、二人は個人の自由を守ろうとした
オーウェルはイギリス文化を愛していたが、ナショナリズムは嫌っていた
おそらく、現在のBrexitのような運動には反対したのではないかと思う





2018年8月17日金曜日

今日はいいですよ



本日も快晴で、やや暑かった
午後から南の方に出てプロジェに当たる
このところの方針は、前に進めようとか、纏めようとか考えないこと
そうすると、プロジェに手が付かなくなるからだ

テーズの時にそれで苦しみ教訓を得たはずなのだが、ぼさっとしているとその罠に嵌る
何も考えずに、その中で時間を潰すのだと考えれば問題なく入って行ける
始めることができないということがなくなるのだ
今日はそれが功を奏し、進んではいないがその中で遊ぶことができた
これの繰り返しになるのだろう

帰りにお勘定は?と訊くと、今日はいいですよ、という
これまで言葉を交わしたことが殆どないので驚く
苦しんでいる客の姿を見て同情でもしたのだろうか
あるいは、よく来てくれるお礼なのだろうか

カフェだけでなくバスでもこのようなことが何度かあった
日本ではなかなか起こり得ないのではないかと思われるのだが、、
そこに管理されていない自由さを感じる
人間が生きているとでも言うのだろうか

気分も晴れたようで、帰りのバスは手前で降り、歩いて帰ってきた





2018年8月15日水曜日

聖母被昇天祭の午後




快晴の本日は聖母被昇天祭で祝日になっている

バスをゆっくり待ちながら旧市街に出た

いつものカフェは休みだったので、別のところに入る

現在取り掛かっているプロジェを何とか終えることができた

帰り、いつもと違う道を歩いているうちに最後まで歩くことに

今日は全く疲れを感じなかった

それにしても、何と穏やかな午後だろうか







2018年8月14日火曜日

激しい意思表示



本日も快晴だが、風は涼しい
朝から外でプロジェに当たる

そこに向かうバスでのこと
途中、乗客は乗り終わっているのになかなか発車しないところがあった
どうも運転手と乗り込んだ老夫婦がやり合っていたようだ

詳細は分からないが、夫の方が料金を払っていないので運転手がそれを待っていたようだ
やや手が不自由になっている夫は、払う必要がないとのことで運転手を相手にしない
しかし、お二人は降ろされた

降りてから夫の方はポケットから何かの紙切れを出した
料金免除を証明するものではないかと思う
バスの中ではすぐに出せなかったのだろう
妻がそれを掲げて、言った通りだろうという身振りをする

発車しても気分が収まらない運転手は歩いていた夫婦を見つけ、バスを止めた
二人の証拠写真を撮るためのようであった
もう降りているのでよさそうなものだが、言い争いの中で何かあったのかもしれない

その時である
スマートフォンを向けられた妻は後ろ向きになり、ズボンを下げたのだ
F… you! という訳だろう
車内から何とも表現のしようのない「ウォー」という声が上がった
朝から見たくないものを見せられてしまった感がある
そして、見た目からは想像もできないような女性から激しい意思を見せられた思いであった


今日のシェールとロワールはともに水位が下がり、浅いところでは底が見えていた






2018年8月13日月曜日

もう読書の秋?

    若きマルクス・アウレリウス
       (c. 140 AD)


このところ20℃台の過ごしやすい日が続いている
読書の秋の気分になってきた
気持ちが鎮まってきたのだろうか

もうこちらに来た当初の気持ちを再現することは不可能である
日本にいる時には手が伸びなかったものを読んでいることを考えると、変化はあるのだろう
昔と何がどのように変わってきたのか
その問いにはいつも興味を持っている






2018年8月9日木曜日

秋らしい一日

  Ruines de l'abbaye médiévale de Heisterbach (1863)
      (Wilhelm Steuerwaldt, 1815-1871)



数日前の予報を裏切り、今日は20℃台前半の涼しさである

これから数日は同じような気温になりそうだ

これで「ゆったり」から「だらだら」に移行していた生活態度が改まることを期待したい







2018年8月6日月曜日

連日の真夏日に打つ手なし



トゥールも暑さでは負けていない
連日の真夏日である
幸いなことは湿気がないことだろうか
しかし、集中力が落ちることに変わりはなさそうだ

こういう時は、日頃の仕事から解放され、ゆったりするのがよいのだろう
ただ、わたしの問題は、日頃からゆったりしているのでその作戦が使えないことだ
その点、忙しく仕事に没頭されている方が羨ましい限りである







2018年8月3日金曜日

何度でも「科学と哲学」

       ミケランジェロ
    ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ


日本では猛暑日が何週間も続いているところもあるとの便りが届いた
こちらはそれほどではないが、それでも真夏日が続いている
向かいのグラウンドの芝は毎日水がまかれ手入れされているので緑を保っている

今朝、手前の芝の半分が枯れていることに気付く
それなりの暑さが続いていることが分かる
幸いアパルトマンの中にいると、エアコンはないのだが涼しいので助かっている

今日の便りには、近々発売になるカール・ウーズについての本の書評が添えられていた
その最後は次のような言葉で終わっていた
多くの人は認識していないが、根のところで科学と哲学は絡み合っている
著者は賢明にもそのことに気付いている

実は昨日、ガーディアン紙に出ていた科学と哲学に関する対論を読んだばかりであった
哲学者のジュリアン・バジーニさんと科学者のローレンス・クラウスさんによるもの
もう6年前の日付になっている
そこで語られていることに新しいことはなかったが、いくつか書き出しておきたい

バジーニの言葉として、哲学者は科学者が着る白衣に憧れるところがあるという
その傾向があることは、哲学に入ってこれまでわたし自身も感じてきたことだ
程度問題だが、それには反対したい気持ちの方が強い
そこに行ってしまうと哲学本来のものを捨てることになるのではないかという危惧があるからだ

バジーニさんは科学では扱えない問題として倫理や道徳の問題があるという
それに対して、クラウスさんはこう反応する
世界には回答ができるものとできないものがあり、回答できるものは科学になる
道徳性に関しても、それが理性に基づくものであれば科学が解決できるだろう
しかし、理性だけでは無力である

バジーニさんは科学で解決できない問題は重要な問題ではないという科学主義に異議を唱える
科学では扱えない問題がどうしても残り、それが重要でないとは言えないという
クラウスさんはそれには反対すると予想したが、次のように答える
哲学的議論は多くのことを決定する際に事実について省察するという重要な役割がある
しかし、その際の事実は実証的に明らかにされたものだけであるべきだろう
確かに、人間の問題は理性だけでは処理できそうにない
しかし科学は進歩するので、いずれ道徳の問題も科学が解明できると考えている
つまり、Why問題はHow問題になるのである

突き詰めれば、最終的にすべてが科学で説明できるのかどうかになるだろう
しかし、それは歩みを進めなければ分からない
これまでの科学の歩みを見ると、何かが分かるとそれまで見えていなかった謎が現れる
これの繰り返しである
その経験から、自然のすべてが姿をあらわす日が来るとは到底思えない
自然の奥深さは人知を超えているのではないかというのがいまの実感である
そうならば、科学と哲学などの領域の両方に目を配っておくべきだろう

科学の力を信じているクラウスさんは言っている
科学がすべてを解決し、もう答えられる問題がなくなったとしたら何と悲しいことだろう
確かに、人間が好奇心の動物であるとしたら、それは悲劇的なことかもしれない
そこには人間がいなくなるということにもなるだろう
しかし、科学の仕事が終わった後にも確実に残るものがあるような気がしている
これは科学がすべてを解決するという信念と同じ信の領域に属するものかもしれないのだが

科学が終わり、静寂が訪れた後にもまだ残っている人間の好奇心を刺激するもの
それはどういうものなのだろうか
その時を体験することはないだろうが、好奇心は掻き立てられる





2018年8月1日水曜日

翻訳の最初の見直しを終える



本日は快晴
これから午後にかけて30℃にまで上昇するのではないだろうか
予報によるとこれから数日は30℃が続くようだ

翻訳の最初の見直しを終えた
前回のものよりはスムーズに進んだようだ
内容が科学の事実に関するものに集中しているからだろう

意味が通じないところが出てくるが、その時にはまず自分の理解力を疑うべきだろう
しかし、それでもおかしい時がある
その時は本文が間違っていることを疑う必要がある

最初はなかなかそこまで考えが回らなかった
しかし前回もそうだったが、中身に間違いが少なくないことに気付いた
こちらの出版社での編集作業は、文法的な間違いの検討に限られている可能性が高い
その意味では、翻訳者が本文の校正者の役割も担ったことになるのだろう

いずれにせよ、これでひとまず小休止ということになる