2016年1月31日日曜日
単に比較の問題か?
このところ規則正しい生活が続いている
これまでなかなかできなかったことが今年は意外にすんなりできている
9年目に入り、やっと日本にいた時と同じ日常的な感覚に戻ってきたということになる
それは余り望ましいことには見えないが、8年という時間に満足しなければならないのだろう
それに、この精神状態でなければできないこともあるはずだ
今日は雨だが、ビブリオテークに出掛ける
地道に「仕事」を進める
これは今年のプロジェとも言えるもので、これからも続けることになる
最近、ネットで日本の映像を観ることが増えている
そこで、いろいろな人の年齢を見て驚いている
30代か40代だろうと思うと、40代か50代、時に60代にもなっている
本当に成熟しているのかという思いが湧いてくる
急に頼りなく見えてくる
ただ、少し引いてみると、見ている方もそれほど成熟しているとは思えない
そう見える一つの理由は、長い間こちらで見た顔との差が関係しているのではないか
もう一つの大きな理由は、見ている方がそれ以上に歳をとったということではないのか
詰まらないところに落ち着いてしまったようだ
2016年1月28日木曜日
古代人を読む意味とは
La Bise (1983), Erik Dietman (1937-2002)
@Musée des beaux-arts d'Angers
古代ギリシャの研究者ピエール・ジュデ・ド・ラ・コンブ(Pierre Judet de la Combe, 1949-)さんのお話から
古代ギリシャ、古代ローマへの回帰はいつの時代にもあった
中世、ルネサンス、ロマン主義時代、そして破壊的な結果になったファシズムとナチズムの時代
古代人の思想の内容だけを見ていると、間違う危険性がある
例えば、正義
プラトンに批判的な人は、こういう引用をする
「正義とは、友は優しく、敵は冷たく扱うこと」
古代ギリシャ人にとって、世界は友と敵に分かれ、それが永遠に続く戦争の土壌となっていく
現代で言えば、極左、極右に見られる敵か味方かという二元的世界に繋がっている
フランスの国民戦線の場合には、根っからのフランス人か移民かという二分法である
それから、女性と奴隷の社会的地位
この点では、古代人に弁護の余地はない
彼らの思想の内容だけを見ると、得られるところは少ないかもしれない
そうではなく、今日では見られなくなった思考の道筋を見出し、そこからどう考えるのか
そこが問われることになるだろう
一つの思想がどのように言語化されているのかを学ぶこと
それは非常に面白いことで、専門家だけに限られたことではない
倫理が他者の理解に基づいているという意味で、そこには文化の倫理的側面がある
「君はそう考え、その権利がある」というだけでは不十分である
「君はそう考え、僕は君のようには考えないが、君は正しいかもしれない
君が正しく、僕が間違っているかもしれない理由、あるいはその逆の理由は何なのか?」
このような対話を始める必要があるだろう
その時、われわれを取り巻く因習から抜け出す(sortir de nos ornières)必要がある
@Musée des beaux-arts d'Angers
古代ギリシャの研究者ピエール・ジュデ・ド・ラ・コンブ(Pierre Judet de la Combe, 1949-)さんのお話から
古代ギリシャ、古代ローマへの回帰はいつの時代にもあった
中世、ルネサンス、ロマン主義時代、そして破壊的な結果になったファシズムとナチズムの時代
古代人の思想の内容だけを見ていると、間違う危険性がある
例えば、正義
プラトンに批判的な人は、こういう引用をする
「正義とは、友は優しく、敵は冷たく扱うこと」
古代ギリシャ人にとって、世界は友と敵に分かれ、それが永遠に続く戦争の土壌となっていく
現代で言えば、極左、極右に見られる敵か味方かという二元的世界に繋がっている
フランスの国民戦線の場合には、根っからのフランス人か移民かという二分法である
それから、女性と奴隷の社会的地位
この点では、古代人に弁護の余地はない
彼らの思想の内容だけを見ると、得られるところは少ないかもしれない
そうではなく、今日では見られなくなった思考の道筋を見出し、そこからどう考えるのか
そこが問われることになるだろう
一つの思想がどのように言語化されているのかを学ぶこと
それは非常に面白いことで、専門家だけに限られたことではない
倫理が他者の理解に基づいているという意味で、そこには文化の倫理的側面がある
「君はそう考え、その権利がある」というだけでは不十分である
「君はそう考え、僕は君のようには考えないが、君は正しいかもしれない
君が正しく、僕が間違っているかもしれない理由、あるいはその逆の理由は何なのか?」
このような対話を始める必要があるだろう
その時、われわれを取り巻く因習から抜け出す(sortir de nos ornières)必要がある
2016年1月25日月曜日
完全休養明け、何かが見えてくる
週末は完全休養にした
何もせず、時の流れを見、時に日本の映像を眺めたりしながら
偶にこのような時間を必要としているようだ
朝目覚めてシャッターを開けると、久し振りの雲一つない快晴
これがなければパリの空ではない飛行機雲を除いては
休みの後のためか、これまでなかなか纏まらなかったプロジェの輪郭が見えてきた
それは、疲れのため失われていた決断する力が戻って来たためではないかと思われる
2016年1月23日土曜日
「哲学に改宗する」 とは
古代哲学の専門家にピエール・アドー(Pierre Hadot, 1922-2010)さんがいる
わたしが哲学に入る時に後押しをする言葉を残していた方である
それまでは古代の哲学者の理論的側面に重点を置いた研究が成され、論じられていたという
アドーさんは古代哲学の中に「生き方としての哲学」、「精神的な転換」という側面を見出した
それは、哲学とは理論的な体系を作ることだと考えていたわたしの認識を変えるものであった
偶然にもその言葉を読み、哲学に入ることに抵抗がなくなったのである
アドーさんの本を読む中で、conversion (改宗)という言葉が哲学に使われていることに気付く
信心深い母親の下で育てられたが、宗教ではなく哲学に入るという大きな決断をしたのである
つまり、それ以前とそれ以後を分ける断裂があり、それを境に生き方が変わるということである
振り返れば、程度の違いはあるのだろうが、同様の変化を10年ほど前に経験していたことになる
アドーさんによる改宗後の状態は「真の生活」とされ、次のようなものとして考えられている
自己の認識に達し、世界を正確に理解し、内的平穏と自由を得た状態である
それは、内的苦しみから解放された状態と言い換えることができる
そこに至るには、自己の認識と世界の理解が前提になっているとも言えるだろう
確かに、古代の哲学者には心を如何にコントロールするのかを考えた人が少なくない
知識と理論を基にそれを考えたのである
その意味では、理論と実践が結びついていたことになる
先日お話したフランスの哲学者によれば、今ではこのような哲学のやり方をする人は少ないという
仕事として哲学をやっていて、哲学と生活が乖離しているということである
わたしが古代の哲学者に親和性を感じるのは、このような背景があるのではないだろうか
どのように理論と実践を組み合わせるのか?
この問いが常にどこかに漂っている
帰国の度に開いているカフェフィロPAWLの背後にもアドーさんがいる
2016年1月22日金曜日
疲れた時は、これからを考える
今日も晴れていたのでビブリオテークまで出かかる
風が強く、冷たい
週も終わりに近づくと疲れを感じる
早めに引き上げた
夜、バルコンに出ると、雲一つない空にほぼ満ちている鋭い光を発する月が出ていた
写真では再現できないが、背景になっている夜の空の深い藍もなかなか良い
更地のまま広がっているこれからを考える
その歩み方の輪郭は見えてきたと言えるだろう
ただ、建物の輪郭は見えてこない
しかし、それは当然のことではないか
最初に設計図を持たない遊歩者としては
こちらに来てから、これはダーウィン主義の日常版であることに気付いた
やり方、歩み方は決まっているが、どこに辿り着くのかは分からないのである
やり方、歩み方は決まっているが、どこに辿り着くのかは分からないのである
一方、生物には目的地があり、そこに向けて歩んでいるという見方もある
現代科学の批判の対象ではあるが
科学的な見方だけが正しいわけでもないだろう
目的地を定めて歩むという生き方があってもよいのだろう
ただ、それはわたしのやり方ではなかったというだけの話である
現代科学の批判の対象ではあるが
科学的な見方だけが正しいわけでもないだろう
目的地を定めて歩むという生き方があってもよいのだろう
ただ、それはわたしのやり方ではなかったというだけの話である
ところで、進化と生き方との間には関係はあるのだろうか
一見関係なさそうだが、生物が持つと思われる性質に従っている方が自然に生きられそうに見える
偶然そうすることになった者から見るからだろうが
偶然そうすることになった者から見るからだろうが
2016年1月20日水曜日
永遠から有限の現実へ?
今日は新年最初の素晴らしい空を仰ぐことができた
今年に入ってから、時間の流れ方が違うように感じている
余りにも現実的で、面白みに欠ける時間とでも言うのだろうか
今振り返ると、学生として生活していた時には永遠の中を歩んでいたように感じられる
終わりがあることは知っていたのだろうが、現実的なものとしては捉えられていなかったのだろう
夢の中の至福の時とでも言える時間であった
これは、その中にいる時には気付かなかったことである
新しい場所に移ったこともあるのだろうか
今、その時間は別のものとしてどこか遠いところに閉じ込められてしまったように見える
最初の学生時代が至福の時だったのかどうか、もう思い出せない
その後に、所謂仕事の時が流れた
思い返せば、その時も終わりがないものとして仕事をしていたように思う
しかし、終わりの僅か2年ほど前に現実を理解した
そしてその後、至福の時の中に入って行った
サイクリックな人生を送っているのかどうかわからない
ただ、どうもこれからの時間が仕事の要素を含むものになるのではないかという予感がしている
学生時代の延長というよりは、卒業して社会に出るという心境になりつつあるからだ
世に終活という言葉が出回っていることを知った
今の心境は元々の就活に近いとも言えそうである
このような道が良いことなのかどうか、今は分からない
その中に真理を発見するつもりで
空は相変わらずで、このところ寒さが増してきているようだ
早く素晴らしい空を見てみたいものだ
昨年の正月の出来事のお蔭で、それ以前の数年間のイメージを完全に失ってしまった
今日は5年前の写真を掲げてみた
今年に入り、一つのプロジェを始めた
少しずつ真面目にやらなければ終わらないものなので、性に合わない
純粋に学ぶつもりで、取り掛かっている
しかし最近は、「その中に真理を発見するつもりで」と言い換えるようにしている
そうすると、気持ちの持ちようが全く変わってくる
性に合わない、などと言っていられなくなる
2016年1月18日月曜日
新年のカフェで
午後から久しぶりのカフェに出かける
昔からいた年配の人がいなくなっていたが、若い方の人が握手を求めて来た
こちらに来てから、カフェに落ち着いた時に起こる心の変化に気付くようになった
それはわたしが言うところの「ぼんやりした」状態である
具体的には、視線が遥か彼方だけではなく、深く内に向かうのである
その状態に入ることが自己に安定感を与えるのか
暫くして、それが落ち着いた幸福の感情を運んできてくれることにも気付くことになった
今日は、これからについてのアイディアが浮かんできた
年が明けてから、少し真面目になり過ぎているようである
7年に及ぶ空飛ぶ時間から昨年は地上に降り、学生生活に戻ることができた
今では、最初の7年がどういう精神状態だったのかを再現することもできなくなっている
その意味では、そこにもう戻ることのできない夢の7年間とも言えるだろう
逆に言うと、これから厳しい現実が待っているということだろうか
驚きの決断
昨日はあっという間の決断で、新しい場所を作ることにしていた
今日は長い間ご無沙汰していた仏英版のブログも新しくした
直前まではこんなことになるとは思ってもいなかったので、驚いた
おそらく、これまでの場所に書いていくモチベーションを感じなくなっていたのだろう
ページを捲らなければならないと感じたのだろうか
沈潜の時から徐々に浮き上がるべきだとでも思ったのだろうか
いずれにせよ、新しいステージに入ったことだけは間違いない
それにしても新年が明けてからスカッと晴れた日は一日もない
予報を見ても暫く曇天が続きそうである
2016年1月16日土曜日
新しい場所から
5年ほどの間綴って来た場所からここに引っ越してきました
これまでの場所、「パリの断章」と「科学・医学・哲学を巡って」 を融合した形で始めることにしました
おそらく、パリの学生生活に一区切りが付き、新しい枠組みを求めたのかもしれません
今はすっきりした気持ちで、この新しい場所から始められそうです
お付き合いのほど、よろしくお願いいたします
お付き合いのほど、よろしくお願いいたします
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