2019年6月30日日曜日

少し落ち着いてきた?



早いもので今年も半分を終えたことになる
昨日は体が膨れるような天候で、ボーっとせざるを得なかった
今日は少し落ち着いてきたようだ
徐々にプロジェに入って行きたいものである

今朝、安部公房がこんなことを言っているのが聞こえた
「異常が正統になり、正常が異端となるような時代」
 そうなれば大変だというようなことだっただろうか
もう3-40年前の言葉になるのだろうが、ほとんど違和感がない予言となっているようだ






2019年6月29日土曜日

カニキュールのトゥールに戻る



朝のうちは涼しく気持ちよかったが、お昼にかけてどんどん暑さを増していった
そのボルドーから今夕戻った
想定外のカニキュールのトゥールに
体感温度は41℃で、実際には36℃とのこと
熱波は追いかけてくる感じだが、フランス全土に及んでいるのだから仕方がない
地中海側では最高の警報が出ている
フランスには台風や地震はないと思っていたが、カニキュールがあるのを忘れていた


昨日の真剣な哲学的デジュネのお陰だろうか
わたしのプロジェの方向性というか重点の置き方がはっきりしてきたように見える
少なくとも精神的には盛り上がってきた
あとは外界の熱と我が内なる熱との対決になるのだろう
これは言うは易く、なかなか大変だ
そこに肉体があるからだ



















2019年6月27日木曜日

猛暑のボルドーでディスカッション



本日はディスカッションのために何年かぶりのボルドーへ
パリやトゥールでお世話になったマエル・ルモワン教授とのデジュネがあった
コルシカ料理を食しながら、哲学、文学、科学、言語、人生など、充実の2時間となった
今思い出すところをいくつか


哲学に固有の方法はあるのか
実は、この問いはわたしがフランスに渡る時のものでもあった
もしあるのであれば、それを学びたいと思っていたのである
しかし、2年間の講義の中ではそれを見つけることができなかった
その方法は自分が探索するしかないことを悟ったのである
わたしの場合、過去の哲学者の思索を漁ることであり、瞑想という思考方法であった
ルモワン氏も哲学固有の方法はないという点で、わたしの考えとほぼ一致した
その上で、条件として厳密さを加えた
これはわたしが言うところの論理のつながりの乱れの無さとも通じるものだろう


ハイデッガーだったか、デカルトだったろうか
哲学者は哲学の森を当てもなく歩き回っているという言い方がある
一生その中で満足している者がいる
その一方、そこから出て一つの目的に向けて歩みを進める者が出る
そして、その目的を達したと思ったら、再び鬱蒼たる森に戻ってもよいのだろう
現代の科学の哲学者は、自らのやり方で科学の問題解決に寄与したいと願っている
森から出ているのだろう
しかし、森の中と森の外の二つの環境が哲学者には必要ではないだろうか
自らを振り返ると、その一方だけでは満たされないものを感じてきた
ルモワン氏も同様の認識をしていることが分かった
森の中を捨て去るということは、ひょっとすると哲学者を辞めることを意味しているのかもしれない


ルモワン氏はトゥールにいたこともあるので、穴場を紹介してもらった
その場所はロワールにも近く、瞑想にうってつけの散歩道になるという
話を聞いていると、晩年のルソーが夢想者として散策した空間が浮かんでくるように感じた
戻ってから早速試してみたい
今回の滞在では、街に出るより身近で過ごすことがテーマになっている
このテーマにも合致するので、植物園のように面白いところであればよいのだが、、


タクシーの運転手によると、嘘か真か、昨日の昼は40℃になったという
それがまんざら嘘でもなさそうなのは、現在39℃になっているからだ
こう暑いと歩く気がしなくなる
そう言えば昨日の夜、SNCFから明日は水分の補給を忘れないようにというメールが届いていた

ということで、冷房の効いたカフェに落ち着き、今日のまとめをアップすることになった
ヴァカンス気分から抜け出るのは至難の業なのだろうか







2019年6月26日水曜日

真夏日にジャルダン・ボタニックで



天気予報を見ると、当地は今日から連日の真夏日のようだ
今朝はETVに行き当たり、須賀敦子、安部公房、パリの久野収、鶴見俊輔の特集を観る
この中で印象に残ったのは、須賀敦子の作家人生だ
彼女は20代からパリ、イタリアで過ごした後、40歳で日本に戻ってから20年は何も書かなかった
そして60歳から10年間書いたという
その前の何もしないように見える空白の時間が貴重だったということだろうか


午後、いつものようにジャルダン・ボタニックへ
歩いた後は砂煙が上がるほど乾燥していたようだ
カフェに落ち着き、以前に書いたものを読み返す
短い時間だったが、集中できたのではないだろうか
つまり、時間が消えたということである
周りは殆どヴァカンスだ





2019年6月25日火曜日

初日は植物園で



これまでは仕事がよくできるという理由でカフェを利用していた
アパルトマンに留まっていると注意が分散してしまうからだろう
しかし今回こちらに着いた時、アパルトマン周辺に留まっても何かができそうな気がした
ということで、今週からその可能性を試してみることにした

初日は近くにある植物園に足を延ばした
そこにあるベンチで瞑想してもよし、園内のカフェで手仕事をしてもよしである
午前中はオープン・カフェに落ち着く
新鮮な空気の中、滞っていたプロジェが少し動き出したように感じた
お昼に一旦戻り、夕方からベンチで朝の続きをやる
バカンスムード漂う園内で、いずれも短い間だったが、非常にいい感じであった

おそらく、まだ新鮮だからそれができているのだろう
どのように展開するのか、暫く様子を見ることにしたい











2019年6月22日土曜日

見事な快晴の朝



今朝は見事な快晴である
グラウンドではこれから何かの大会だろうか
セットアップが進んでいる

久し振りの買い物兼散策に出ることにした
実に気持ちがよい
何がこの感覚の違いを生み出しているのだろうか
未だに分からない

カラッとした天候も関係しているのだろうが、それだけではなさそうだ
自分の身に纏わり付いたものすべてから解放されているからだろうか
そのすべてを意識しなくてもよい環境にいると言い換えてもよいかもしれない
それがこころを軽くしているのだろうか
いずれにせよ、この生にとって欠かせない感覚となっている

そのことを確認した週末の朝





2019年6月21日金曜日

無事トゥールに戻る



今日の午後、無事にトゥールに戻った
いつもの静かな町が待っていた
空港やTGVにはどこかヴァカンス気分が漂い、それはそのままこの町にもあるようだ
その気分に合わせたくなるのだが、どれだけ抗うことができるだろうか





2019年6月20日木曜日

今回の日本滞在を振り返って



ほぼ4か月に及ぶ日本滞在が終わりに近づいている
日本に着いた時にはまだ翻訳の仕事をしていたことを思うと、長い滞在であった
今の段階でいくつか気づいたことがあるので、ここに書き留めておきたい

一つは、時の流れに関することである
このような日程を、実際には不可能だが、仕事に終われている時に実行したと想像する
そうすると、結構せわしないものになっていたのではないかと思われる
しかし、今回はそのようなことにはならなかった

一日一日に打ち込んでいるので、先のことが全く気にかからなくなっているのだ
そのためかどうかわからないが、時の流れが非常に遅く感じられる
一日が長いのである
何かに追われるという感覚もなくなっている
ゆったりと流れる時に、ただ身を任せているだけなのである

もう一つは、精神と肉体の関連に関することである
時の流れに身を委ねているが、あるいはそのために、ダラダラすることがある
そのまま一日を終えると、体が冴えないのである
しかし、ほんの数時間でも集中した精神活動をすると、その後は体がシャキッとしてくる
何度か試したが、いつも体が蘇り、それによって今度は精神も高揚してくるのである
驚くべき効果である
これからも注目したい問題となった



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jeudi 20 juin 2019 à Paris

日本からパリの機内で、精神と肉体との関係について新たな考えが浮かんできた
こういうことである

ダラダラしていると肉体が冴えないと言ったが、その時の肉体の状態は分からないのではないか
どこか冴えないと精神が感じ取っていると言った方が正確ではないだろうか
明確な症状がある場合は別だが、肉体の全体的な調子は精神が感じ取っているわけである

精神活動をすると、肉体が元気づくように感じられるということは真実である
肉体の物理的な状態は分からないが、そう感じることに大きな意味があるように見える
というところで、今日のところは収めておきたい






2019年6月18日火曜日

フランスから帰国された友人とのディネ



今日はフランスでお世話になった友人とのディネがあった
もう6-7年になるだろうか
フランスのことをいろいろ教えていただいた

今回は研鑽を終え日本に帰国されたので、新しいお話を伺うことができればと考えていた
お仕事の内容が異なっているので、参考になることが多かった
お忙しい中、お時間を割いていただき感謝したい 
これからもこのような機会が生まれることを期待したい






2019年6月10日月曜日

なぜ読書が魂の鍛錬になるのか



この週末、新たな繋がりが見え、一つの塊となった
以前から気付いていることだが、自分の考えるようなことはすでに深く考えられている
これは古典などを読むうちに見えてきたことである
逆に言うと、自分の考えを知るためには古典を読まなければならないことになる
読書が欠かせないのだ

今回のベルクソン・カフェでは、「読むことを学ぶ」というエッセイを読んだ
読むということは事実を追うような読み方をすることではない
そうではなく、一つひとつの前で立ち止まって、反芻し、瞑想することである
読書は魂の鍛錬になるのだという
魂の鍛錬とは真の自分に迫るための方法である

これだけではまだ本当のところが明らかにされていないのではないか
そこで隠されていたものは何だったのか
読書と魂の鍛錬を結びつけるものが、実は冒頭の観察にあることに気付いたのである
わたしにとっての発見である
それはどういうことなのか

ソクラテスの時代から、自分を知ることが哲学の、さらに言えば生きる目的であった
冒頭で、自らの考えは過去人の思索の中にあると言っている
だとすれば、自分を知る最上の方法は読書になるのではないか
つまり、過去人の声を聞くことが魂の鍛錬になる理由がそこで明らかになる
事実だけを集める読みではそこには到達できないことも見えてくる






2019年6月8日土曜日

第190回日仏生物学会での特別講演を終える



本日は午後から東京女子医大で第190回日仏生物学会が開催され、その特別講演に招かれた
午前中は最後の調整を行ったが、いつものようにいくらやっても限がないという状態だった
会は定刻に始まったが、途中で時間がかかっていることに気付き、徐々にペースを上げた
そのため、最終的にはひどくオーバーすることもなく収まったのではないだろうか

哲学的な講演は今までなかったとのことだが、いろいろな質問が出ていた
例えば
科学者が哲学者と話すとしても共通の言語がないので理解できないが、その点をどう克服するか
哲学は科学の後を追っているだけで、科学に貢献することはあるのか
科学を取り巻く広い知の世界の存在を教えるには、どのような方法があるのか
免疫と神経の関係はよく見られるが、免疫の生体機能における位置をどう見ているのか
科学の成果の発表(PR)をより有効なものにするためには、どこに注目すべきなのか
などなど

一般演題の発表後にプレゼンテーション賞の投票があったのには驚いた
研究者も大変な時代に生きているようだ

意見交換は懇親会でも続き、このような会では初めての二次会まで経験することになった
時間とともにゲストであることを忘れて持論を展開することになり、内心「これはいかん」
しかし、このような話は重要だという重鎮からの声に救われた
また、わたし自身にとってもかなり幅広い問題について議論できたのは幸いであった


今日でわたしの春季の公式活動がすべて終わったことになる
一つだけ開催を断念したISHE関連の会はあったが、それ以外は無事に終えることができた
そのことを寿ぎたい







2019年6月5日水曜日

雨の一日



久し振りに朝から遠雷を聞き、暫くしてから雨になった
かなり激しく屋根を叩く音も久し振りだ
庭は緑豊かになり、雨のお陰で瑞々しさを増している
思わず写真に収めたくなった
今日は一日中雨だろうか
いつもは外に出ているが、偶には家で過ごすのも悪くないかもしれない