2016年4月30日土曜日

キェルケゴールの哲学と宗教



先月のSHEでは、科学と宗教の一つのバリエーションをテーマとした。

科学と宗教:オーギュスト・コントの場合

関連するテーマのタイトルが目に付いたので、読んでみることにした。

キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ (鈴木祐丞編訳)

解説を読みながら、いろいろな感慨が湧く。まず、以前であればよく理解できなかったであろうと思うところがいくつも現れる。裏返せば、今はそれらが分かるようになっていると感じているということになる。この8年余り、生活とも仕事とも関係のない精神世界にいたため、それぞれの違いが明確になり、類型的にではあるが、自分の中で識別ができるようになって来たことが大きい。以下に、気になったところを書き留めておきたい。

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「天と地と、すべての見えるものと見えないものの作り主、全能の父である唯一の神」が存在する。

神とは、「永遠の、形体のない、不可分の、無限の力と知恵と善を持つ」 存在である。

「信仰とは内面性の無限の情熱と客観的不確かさとの矛盾をそのまま受け止めることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。もし私が神を客観的に把握できるのなら、わたしは信じてなどいない。だがまさしくそれができないからこそ、私は信じるところへと追いこまれるのだ」

信仰とは、「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力<神>のうちに透明に自己を基づける」ことである。――「自己」とは、「本来的な生を生きる人間」の意である。・・・人間は、そのような自己として生きることを欲するに際して、それぞれの人間に向けられているはずの神意に即して生きねばならず、そのように生きている人間こそが、信仰を表現しているのである。

時間的な生の中で完結する諸々の価値を第二義的なものとして相対化して生きること。・・・(それは)必ずしも時間的な物事(仕事、お金、肩書、所有物・・・)の享受を断念することに直結するわけではないだろう。

キェルケゴールは、自らに向けられているはずの神意を尋ね求め、神意に即して生きようとしているのである。





2016年4月29日金曜日

ヴォネガットさんをもう少し



30年以上前に観たヴォネガット・大江対談が出ている読本があったので手に入れた

カート・ヴォネガット (現代作家ガイド)

その中にこういう発言があった
「先程、この世が終わろうがどうしようが関係ないと、人々が思っているから、平和運動の支持が足りないと言いましたね。我々は自分のしていることがわからぬままに、たえずお互いを侮辱しているのだと思います」
これを読み、同様のことを言ったフランス人を最初のブログで取り上げたことを思い出す

ジャン・フランソワ・ルヴェル再び REVEL L'INSOUMIS (2006-05-20)
「人間は自由や真実を大切にする気があるのか、確かではない。たとえそれが自分の利益に反することになるとしても。人間はしばしばどうでもよいと思っているのだ」
若き日にはそれでは駄目だと思っていた
未来における変革の方に目が行っていたからだろう
しかし、その後の世の中の動きを見ていると、彼らの観察に納得せざるを得なくなる
関係ないと思っている人の割合は少なくなっているのかもしれないが、有意の変化には見えない
問題は、それでは駄目だと叫ぶことではなく、その上でどうするのかになるのだろう
駄目だということは多くの人が分かっているはずだからである

ヴォネガットさんは、この点について次のように語っている
平和運動の指導者たちはいつも「我々が直面する危機がわからないのか」と訴えかける
「だが、皆分かっているのですよ。そんなことは教えられなくてもいいわけだ。必要なのは人生が続くかどうかということが大事であるという、その理由なのです。それは政治家ではなく、作家の領域なのです」
政治的スローガンに心動かされることがない理由の一つが、ここにあるのだろう
お定まりの言葉しか出て来ないからだ
そこに別の言葉と思考の必要性が現れる






2016年4月27日水曜日

久し振りにカート・ヴォネガットさん



カート・ヴォネガットさんの『これで駄目なら 若い君たちへ――卒業式講演集』を読む
アメリカ時代に少し読み、マンハッタンの夜のイーストサイドで遭遇した作家だ
丁度、大江健三郎さんとの対談をテレビで観た後だった
感想を訊いてみたところ、日本では余りにも背が高すぎたとのことだった
その時の様子が最初のブログに残っていた
対談があったのは1984年なので、もう30年以上前のことになる

カート・ヴォネガットとの遭遇 RENCONTRE AVEC KURT VONNEGUT (2007-02-15)

先ごろ、あるエッセイで文章の書き方を教えてもらった記憶がないと書いた
この本でヴォネガットさんは、こう言っている
「読み書きを覚えるのは恐ろしく難しいことだ
永遠の時間が必要だ
・・・
やってみるとわかる
読み書きを教えるなんてことはほとんど不可能なんだって」

ひょっとすると私の記憶に間違いはなかったのかもしれない
こういう話を聞くと、この世界には終わりがないことを再認識させられる

あと、コミュニティに参加すること、コミュニティを作り育てることの大切さを語っている
そして、家族を広く大きく捉えることも勧めている
人間は一人では満足できず、より多くの人を求める性質のものだからということらしい
この点が理解されていないために離婚率が高くなると考えているようだ





2016年4月25日月曜日

仮の住まい



今回の滞在では、前回感じた「ここに落ち着く」という感覚がなくなっている
これから新しい環境に向けて進むという気持ちが生まれているからだろう
「仮の住まい」ということになるのだろうが、少しでも生活するとそこに僅かながらの接触が生まれる
いろいろな場所に繋がりができるというのは、悪くないのではないだろうか

「仮の住まい」ということで言えば、これから向かう場所もそうなるはずである
さらに言ってしまえば、この世そのものが「仮の住まい」ということになる
そう思えると、場所にそれほど拘ることもなくなる





2016年4月20日水曜日

朝日をじっと観る



今日も日の出を味わうことができた
空はすでに飛行機雲により荒らされ、新鮮な雲が次々に現れてきた

上る太陽をじっと見てみる
すると、その周りに紫色の環が現れ、さらにその外に青い大きな環が広がって来た
美しい眺めであった

今日はこれから空を飛ぶことになっている





2016年4月19日火曜日

パリにいると同時に日本にもいる



今日も晴れで、青い空にはぷかぷかと雲が浮かんでいる
今朝は久しぶりにゆったりしたバルコンの時間を持つことができた
部屋の中からはジャズの調べが流れ、それに鳥の声が和してくる
至福の時間であった
これを味わい過ぎると、前に向かって動きたくなるという悪い副作用が出てくる

パリ生活の節目節目を振り返ると、綱渡りの連続であったことが分かる
今の状態にまで来たのが実に不思議である
このように決められていたとしか言いようがない
いつもの結論に落ち着く

今回のパリ滞在で感じていたのは、次のことだ
時間はないと言ったジュリアン・バーバーさん
すべては今この時に詰め込まれているという
あらゆる可能性があるものとしてわれわれは存在している
問題は確率だけだという

時間を追いかけてきたジュリアン・バーバーという科学者 (2012-3-19)

上の記事にあるビデオで、さらにこんなことを言っている
今取材のためオランダにいるが、同時に自分の家があるケンブリッジにもいる

同じような感覚を今回のパリで覚えているのだ
つまり、今パリにいるが同時に日本の家にもいるという感覚である
顔を洗う時日本の家で洗っているような気になり、シャワーを浴びている時にも同じ感覚が訪れる
バーバーさんの言っている意味と同じかどうかは分からない
しかし、これまでとは違う現実を味わっているように感じる
より豊かになっているように感じるのだ






快晴の一日、じっと待つ



今朝、久し振りの一瞬の朝日を味わう
それから真っ青な快晴になった
順調な一日を思わせた

朝から事務手続きに出掛ける
建物に入る時の身体検査はなくなっていた
しかし、手続きは紆余曲折があり、これまでで最長の七時間ほど待たされた
一日仕事である
最後は問題なく終わった

こんな日もあるということだろう




2016年4月17日日曜日

好印象と共にパリへ



今朝は快晴となった
昨日入った不動産屋の人は、トゥールの素晴らしさを強調していた
個人的にも好印象と共にこれからパリに戻ることができそうだ





出発前の駅のカフェ
こんな広告が地元の案内紙に出ているのを見つけた
トゥールの隣町にダビンチが来てから今年で500年目を迎えるという

冒頭にはダビンチのインタビューが載っている





63歳のダビンチがフランソワ一世に招かれ、フィレンツェからアンボワーズに来たのが1516年
その時の印象を訊かれ、こう答えている
ラバの背に乗ってのアルプス越えの旅は、忘れられないものになった
ただ、『洗礼者ヨハネ』、 『聖アンナと聖母子』、『モナ・リザ』を持って来たので気を使い大変だった


何というタイミングでこの地に移ってくることになるのか
何の関係もないが、なぜか楽しくなるお話であった










2016年4月16日土曜日

これからのベースとしてのトゥール




今日は散策と決め込んだ
心も鎮まるような静かな朝だ
市庁舎の前では、美しいチューリップが目に付いた
観光客と思われる人たちがゆっくり歩いている

まず目に入ったリブレリーへ
最近、ユベール・リーヴズさんの宇宙についての本が出たことを思い出す
気分が緩やかに大きくなっていたからだろうか




それからロワール川の方に向かう
以前には気付かなかった像に今朝は気付いた
近付くと、この方だった
思い返せば、前回の滞在ではこの方の名前が付いた町に行こうとしたが果たせなかった





その近くには前回は何気なく見ていたこの方がいた
今回は親しみを込めて、じっくり見入る
現代の知識人のような顔で、颯爽として見えるのに少し驚く
前回はこのような印象は持たなかった
前回のものを見直してみるとかなり汚れていて、表情までははっきり掴めなかったからだろう
同じものを何度でも見直すことの意味がそこにあるのか

ついでだが、前回の滞在で淡い虹が見えたが、その意味が掴めないとある
ひょっとすると、その意味は数年後の今回に繋がっていたのだろうか

この像から目を転じると、桜並木が目に入る
トゥールでも桜が愛されていたとは知らなかった 










少々お疲れのようだったので、旧市街のカフェでゆっくりする
途中雨が降り出したので予定よりもさらに長居した



Hôtel de ville de Tours


僅かの滞在だが、暫くのベースとして快適に生活できそうな感触を得ることができた
実際にはどうなるのだろうか
何事も実験である




トゥールの様子を見る



この週末をパリの南1時間ほどのところにあるトゥールで過ごすことにした
何事もなければ九月からこの町で暫く時を過ごすことになったので、下見の意味も兼ねて
振り返れば、数年前の年越しをこの町でやっていた

Tours 2012-2013

見直してみたが、結構いい感じの時を過ごしていた様子が伝わって来る

今日は駅前の辺りを散策
まだ町のオリエンテーションが前回のものと重なっていない
いくつか不動産屋が目に入ったので、入って様子を訊いてみた
想像通り、パリよりはかなりお安いようである
まだかなり早いので、もっと後に来てくださいとのこと


Centre International de Congrès de Tours

駅前のこの建物は、前回も印象に残ったもの



 Faculté de Médecine, Université François-Rabelais


ホテルから大学に向かったが、結構時間がかかった
体力が落ちているのか、疲れているのか、汗びっしょり
運動不足を補うつもりでしっかり歩いた

町と同じようにこじんまりした佇まいで、親しみが持てる
出てきた留学生と思われる学生に道を尋ねてみたが、全身で対応している様子が伝わってきた
なかなか感じが良さそうな雰囲気であった




今日で所期の目的は大体果たしたように見える





2016年4月8日金曜日

雑然から透明へ



久し振りのパリは肌寒い
日本ではフランス語が抑制される
その上、日本語が氾濫しているので、一つひとつの発言や文章がその中で滲んでしまう
印象的な塊として入って来ないのだ
それがこちらに戻るとその塊が浮き上がって来る

それだけではなく、日本にいる時には頭の中も雑然としているようだ
生活のことやどうでもよい情報が溢れる中に、その具体性の中に埋もれてしまうからだろうか
こちらでは外界の情報はほとんど入って来ず、頭の中での生活になるためにすっきりする
抽象の世界に落ち着くことができる

この二つの状態は、いずれも大切なはずである
これからどのようなバランスにしていくのか、考えなければならないだろう

今朝、用事を済ますために出掛けた
建物に入る時、以前は簡単な荷物検査だけだった
しかし今回は、荷物検査が入念になっただけではなく、身体検査が加わっていた
先日の事件の影響が出ているということなのだろう





2016年4月6日水曜日

夜桜を楽しむ



本日は古くからの友人ご夫妻とのディネとなった
仕事への意欲は旺盛のようで、潮時を何時にするのかがこれから問題になりそうな様子であった
続けていると、なかなか止められないというのがその心のようである

ディネの後、夜桜見物の散策を楽しんだ
それにしても皆さん桜がお好きなようで、大変な人出であった













2016年4月3日日曜日

Be kind to yourself



先日、何気なくテレビをつけると、穐吉敏子さんを追った番組が流れていた
その中で、印象に残る言葉があったので書き留めておきたい
"Be kind to yourself" である
彼女の説明は次のようなものであった、と記憶している

自分に親切にするということ
それは、自分の能力を最大限発揮できるように、諦めず、最後まで歩み続けるということ
途中で自分はこんなものかと思った瞬間、自分の能力の羽ばたきを見ることができなくなる
それは自分に親切だということにはならない
自分の中に何が詰まっているのか分からないのだから、それを見ることができるようにすること
そのために続けるのです

これは、わたしが今のところ考えている「生きる意味」に近いかもしれない
つまり、生きてきた意味は最後の最後にならなければ分からない
だから、それを知るために生きるのである
それを知るために、いろいろ試すのである