今週の月曜
いつ殺されてもおかしくないという微かな意識が奥底にあり、それは戦争状態ではないかと書いた
昨日の散策で買ったLe Pointを読んでいたところ、この状態について考えている人を見付けた
ドミニク・モイジ(Dominique Moïsi, 1946-)という政治学者である
彼はテロが永続的にある社会で陥る精神状態を「精神のイスラエル化」と呼んでいる
第六感とか反射がこの状況に対する適応として起こって来ると考えている
進化の過程では必須になる適応かもしれない
もう7年前になるが、イスラエルで次のような観察をしていたので、この形容がよく分かる
ナタン・シャランスキーさんのアイデンティティとは、あるいは内が外のイスラエル?(2009-6-14)
この記事の中に次のように書いてある
今回の短い滞在では確かなことは言えないが、エルサレムの街中で多様な人の波を見ている時、ひょっとしてこの町はここに住んでいる人にとっても外国なのではないか、という思いが湧いていた。世界で最も多くの外国人を受け入れている国に入るらしいので、ある意味当然のことかもしれない。外に開いているのだが、内が外に捲れ返り、内側の粘膜が外気に触れているという印象である。日本人がぬくぬくとした家の中に丸まり込み、内輪の話に明け暮れているように見えるのとは対照的で、ここから眺めるとその落差が益々際立ってくる。旧市街に向かう時に出会った紳士の言ではないが、それを幸せに感じて一生を終えることができるとすればそれに越したことはないのではないか、ということになる。また、イスラエルの若手研究者がストレスの生物現象に与える影響について発表する時、それはまさにこの町で常に緊張とストレスの中で暮らす影響と言ってもよいでしょう、と冗談めかしたおそらく本音の比喩を使うことにもつながっているのだろう。ただ、いまのフランスがイスラエルの状態に近いということではないだろう
パリの街を歩いていてもエルサレムを思い出すことはなかった
新しい状況への必然的な適応として、イスラエルで経験されてきた精神状態が生まれつつある
いまはそう理解しておきたい
最後まで読んでから、また付け加えるかもしれない
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