「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある
このテーゼはいろいろな人がいろいろな言い方で語ってきたものと思われる
古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 と言っている
"Le style est le vêtement de la pensée." (Sénèque)新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう
実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのか、よく分からなかった
しかし、今回日本での時差ぼけの中で分かったような気がした
おそらく、一つの意味が
それは翻訳のことを考えている時に起こった
ここに外国語の文章がある
それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることが分かった
まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのか、である
それは訳者の日本語世界と文章の捉え方などに依存してくる
それだけでもかなりのオプションがあり、それを各文章で考えなければならないのである
途方もないバリエーションが可能であることが分かる
もう一つの要素に文体がある
それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである
一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開している
その表現はフランス語世界の中での一つの階層のようなものに属しているはずである
表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものの表れになる
単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である
もしそうだとすると、文体は必然的にそれを選んだ人の思想を表すことになるだろう
それが意識されているか否かにかかわらず
これは宣長の意と姿の対比にも通じる
意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している
そこに芸術家の真骨頂が発揮されることになる
翻訳の難しさを感じたのも、まさにこの点であった
ある階層にあるフランス語を同じレベルにある日本語に置換しなければならないのである
それは可能な作業だろうか
事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろう
しかし、文学作品などは至難の業に見える
それまで分からなかったこと、気付かなかったことが見えてくる一瞬がある
それはまさしくわたしにとっての発見なのだが、昨年春の帰国時にも同じようなことが起こった
それまで薄々感じてはいたのだが、明確に意識されていなかったことに言葉が与えられたのである
そして、そこから一つの世界が広がった
これからも注意深く観察していきたいものである
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