2016年11月30日水曜日

周年ライフサイクル



トゥールもクリスマスのシーズンを迎えている
駅前の広場には年末恒例のお店が出ていた
いつものように旧市街のカフェに始まり、飽きると街中を散策
またカフェへ、という代り映えのしない生活の中に在る

今の段階で今年を振り返ってみる
今年の前半は日本での時間を長く取り、主に翻訳を中心に進めていた
お陰様で8か月をかけて約300ページを終えることができた
これから校正に入るものと思われる
この間、サイファイ研主催のSHE札幌、SHE、PAWLというカフェを開いた
勿論、人に会うことは大きな出来事として大切にしているのは言うまでもない

6月末にはこちらに戻り、トゥールでのアパルトマン探しと9月中旬の引っ越しを無事に終えた
そして、10月末から1か月の日本滞在
この時は、二つの学会参加と三つのカフェ開催を行った
この滞在では「これから」が整理されたように思う
その中に最近お知らせしたばかりのフォーラムFPSSとベルクソン・カフェのアイディアの芽があった
場所を変えることには大きな効用がある
古人も言っているように、われわれは別の場所で考えるのである

今年の生活を代謝あるいは意識の深さのレベルから振り返ると下図のようになるだろうか
上に行くほど肉体の代謝が上がり、下に行くほど意識の深さが増すというイメージだ
おそらく、当分の間はこのリズムでやっていくことになるだろう
それぞれのフェーズの長さには変化があるだろうが、、、
わたし流の動的生活と静的生活のバランスのとり方がここにあると思いたい




この一年の変化をさらに引いて見ると、次のような図が現れる
上で見られる変化のレベルは、仕事をしている時に比べると誤差範囲にある
つまり、いずれのフェーズも元のレベルから見ると静的生活に当たるということである
興味深い全体像を発見することができた








2016年11月29日火曜日

新しいカフェは 「ベルクソン・カフェ」



日本から戻って、まだ1週間ということが信じられない
かなりの時間が経ったという感覚があるからだ
それだけ充ちていたと思いたい

今日は朝から旧市街に出て、翻訳を始める
午後からは事務的な手続きに向かう
パリとは違い、相手との距離が近いという感じで、非常にやりやすかった
すべてが手の内に入るというこの感覚
小さな町の特典だろう

ところで、以前に 「フランス語を読み、哲学を語る会」 について触れた
その名前が急に 「ベルクソン・カフェ」 に収斂してきた
こういうことが予想もしない時に起こることはしばしばである
その理由は立ち上げたばかりのサイトにあるのでご参照願いたい

ベルクソン・カフェ


開店は来年春以降の予定です
この試みに興味をお持ちの方の参加をお待ちしています
ご質問等ございましたら、自己紹介欄のアドレスまでお知らせください
ご理解、ご協力、よろしくお願いいたします






2016年11月25日金曜日

「サイファイ・フォーラムFPSS」 の呼び掛け


   「サイファイ・フォーラム FPSS」 の呼び掛け
Forum of Philosophy of Science for Scientists 
―― 科学者のための科学の哲学フォーラム――
 
     
【趣旨 「科学を文化として」という声をよく耳にする。しかし、科学者が科学を文化として扱ってきただろうか。何か新しい成果が見つかると、それはこれこれの病気の治療に結び付く、というところでいつも終わっている。それは科学を技術としてしか扱っていないことである。そこには思考というものがなく、まさにハイデッガーが指摘した通りの科学の特徴が現れている。そこから脱しなければ、科学は文化にならないだろう。そのためには、現場から物理的あるいは精神的に離れた立場にいる人が科学について考える過程に参加する必要があるだろう 

これまで提案してきた「科学の形而上学化」は科学の外の領域が科学の中での研究と発見について考察するもので、そこまでを含めた活動を新しい科学の全体として再定義しようとするものである。つまり、形而上学化されていない科学は不完全な科学ということになり、このような試みを行って初めて科学は文化になる可能性が出てくると考えている。

自らを振り返っても、現役の研究者はそのような活動の時間がなかなか取れないと思われる。しかし、現場から離れた研究者、あるいは退職後の研究者にとってはうってつけの営みになるだろう。これも個人的な経験になるが、現場を離れてからの方が科学を近く感じるようになっている。それは科学をこれまでとは違う視点から眺めることができるようになるだけではなく、より全人的な立場から科学に向き合っている感覚がそこにあるからではないかと考えている。この感覚を現場の科学者、さらには市民と共有しながら科学について語り、考察することが科学を文化にする上で重要になるのではないだろうか。 

科学に内在する哲学的な問題、新しい研究成果の中に見られる哲学的なテーマ、さらに研究の進展に伴って現れる倫理的な問題など、考えるべき材料には事欠かない。その上、このような問題について考えることのできる最も近いところにいるのが、実は科学を経験した上でそこからある程度の距離を取っている人である。これまで携わってきた領域を新たな目で学びながら眺め、科学が明らかにするこの世界の断面について考え直すことにより、われわれが生きている世界の理解を深めることができれば素晴らしいと考えている。さらに、そこから科学の世界だけではなく広く社会に発信することにより、科学についての教養、あるいはわたしの言葉を使えば、科学についての「意識の第三層」を深め充実させることにも繋がることが期待される。科学の学会でも哲学の学会でも扱われることのない科学者の身近にある問題を科学に身を置いた者同士が語り合い考えることは、科学を文化とする上でも重要な営みになるだろう。そして、このような試みに関わることにより、自らの生をも豊かにすることができるものと確信している。 

【対象】 呼び掛け人の背景もあり、領域は生物系に限定して始めることにしたい。この領域の、そしてこの領域に興味をお持ちの元研究者、現役研究者、および科学者との意見交換が可能な哲学をはじめとした人文社会科学を専門とされている方の参加を期待している。但し、科学者以外の参加を除外するものではない。 

【運営】 具体的なやり方については賛同者が一堂に会して(それが難しければメールで)ざっくばらんに意見交換する機会を持った上で決めていくというのが現実的だと考えている。基本的に留意したいことは、あまり形式ばらず、個人が前面に出るフラットで緩やかな繋がりにしていきたいという姿勢である 

科学について広く考え、科学の側から科学を文化にしようとするこのような試みについてのご意見あるいは興味をお持ちの方 、she.yakura@gmail.com までご連絡いただければ幸いです。

具体的に動き出すのは、来年春以降の予定です。
ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いします。    


サイファイ研究所ISHE代表&
フランソワ・ラブレー大学客員研究員
矢 倉 英 隆


(2016年12月10日改訂)

PDF版はこちらからお願いします

専用サイトは以下になります
http://sci-phi-fpss.blogspot.fr/






2016年11月22日火曜日

旧市街の辺りをうろうろ



今朝も街に出た
まだ寒いという感覚はない
旧市街でプロジェの一つに取り掛かる
店員の対応が柔らかく、こちらの気持ちも和む
ただ、まだまだ調子は出ない

それから旧市街を写真を撮りながら散策
リブレリーに入る
今日は三冊手に入れた
PAWLやSHEのテーマがわたしの中で響き合っていて、それが本を引き寄せているようだ
非常に良い感じである




夕方、バルコンに出るとこの景色
あっという間に焼け、暗くなっていった





初日はこれからに向けて



今朝は曇り
出る頃には風が強く、さらに雨が加わった
こちらでやるべきことが溜まっていて、その処理のためであった
それは順調に終わり、カフェに入る
いつもの流れである

初日にしては結構集中ができた
あるいは新鮮な初日だったからなのか
次第に固まってきたこれからに向けてのリストを作ってみた
集中だけでは満足しないのか、適度に拡散している
かなりのものである
実際にどの程度進むのだろうか

ところで、今日こちらの研究者とメールのやり取りをしてニンマリすることがあった
冗談のセンスが微妙で、言ってしまわず、しかしその心がニヤッとしていることが分かるというもの
うまく表現できないが、何とも言えずよい
徐々にこちらの大学にも組み込まれつつあるように感じる
彼らがそのように気を遣ってくれていると言った方が正確なのだろうが、、

午後から少しずつ淡い青の空が増えてきた
希望を感じさせるこの感じがよい
最後は快晴だったのではないだろうか




2016年11月21日月曜日

雨のトゥールに戻る



今夜、小雨そぼ降るトゥールに無事戻った
本当に繋がった平面を水平移動という感じ、実に不思議である

こちらに戻り、周りを見回すと出発前の頭の中が見えてくる
と同時に、今回の日本滞在がその中身を整理してくれていたことがよく見えてくる
これからの方向がより明確になってきたというところだろうか
あとは、体が動くかどうかの問題になるだろう





帰りの機内でこの映画を観てきた
多様な人間個人が語る生々しい問題
それは解決不能とも思える深い悩み、人間の根源的な悩みと言ってもよいだろう
愛、殺人、幸福、貧困、不平等、不正義、、

個人の語りの後に出てくる大自然が美しかった
自然は悩むことがあるのだろうか
今回のSHEのテーマにもなっていた人間と自然に繋がってくる
そして、背景に流れる音楽も大自然の無限に届くかと思わせるような響きがあった






また、7年前のクラクフで出会ったこの曲に再会
やはり、元気が出る
ニーナ・シモンという歌手
時に包み込むような、時に激しく爆発するような深みのある人間に届く声
素晴らしい
アルバムが3つもあり、お蔭様で睡眠不足になった






2016年11月20日日曜日

疾風怒濤の静かな一ヶ月が終わる



今回も外から見ると疾風怒濤の一ヶ月であった。しかし、内的には実に静かなものであった。これまでにも触れていると思うが、行く手にいろいろなものが控えても全く動揺しなくなっている。それは、控えているものに向かって行き、それを乗り越えるという意識がなくなっているからだろう。

それではどのような意識の中にいるのか。まず、前に進むという意識がなくなっている。あくまでも一か所に留まり、何かをやっているうちに周りが通り過ぎていくという感覚の中にいる。そのため、肉体的には疲れがあるのかもしれないが、精神にその影響は表れない。そして、精神への影響が軽微であることが、逆に身体にも良い影響を与えている可能性さえある。このような変化は何年か前から感じるようになったものだが、特にテーズの後、明確に意識できるようになったのではないだろうか。驚くべきことである。

今回の日本滞在でも実にいろいろなことが意識に浮かび上がってきた。多くの触れ合いがどこかを刺激していたのだろう。これからそれらを振り返ることにより、さらに新たな発見が生まれるかもしれない。そのためには原体験を生の形で保存しておかなければならない。原体験には無限の可能性が秘められているからであり、最初から意味を与え、加工して蓄えておくと、後で利用できる幅が狭まってしまうからでもある。生きるということは、如何に原体験を増やし、その原体験をどのように味わうのかという問題である。その原体験がその人間に固有なものであるとするならば、それこそその生を十全に生かすことでなくて何であろうか。


今日、フランスに戻る。





2016年11月19日土曜日

パリを思わせるカフェでのデジュネ



昨日はパスツール財団の代表理事をされている渡辺様とのデジュネがあった
まさに、東京にいてもパリを思わせるブラスリーとでも言いたくなるところであった
渡辺様とのお付き合いの始まりは、もう10年前に遡る

P協会のW氏のこと - 科学哲学 EPISTEMOLOGIE (2006.11.21)

それ以来、折に触れて教えを乞うている
最近では帰国の度にお会いしてフランスをはじめとした様々な話題に花を咲かせている
10時間に及ぶ大手術をされたばかりとのことだが、そうとは思えない回復ぶりで安心した

お話の中で、パスツール研のビジビリティを如何に高めるのかを課題にされていることが分かった
そのためにやるべきことは何なのか
日本人にとって遠くの存在であるパスツールとフランスの科学を日常に引き入れること
その一つとして、フランスの科学者を交えた医学や科学についての一般向けの会を頻繁に開くこと
そこで、あまりフランスを前面に出さない方が良いという考えも出されていた
良い会だなー、と思ってその背景を調べると、フランスが絡んでいたことが分かるという流れである

わたしがやっているサイファイ研究所ISHEのミッションの一つに、日仏の交流促進を掲げている
現段階では、フランスの科学書を日本に紹介するということだけである
ただ、パスツール財団が構想されていることとも重なるところがあることが今回分かった 
将来のことになるが、財団が構想されているような会に関与するということを考えてもよいだろう
その余裕があればの話ではあるのだが、、

いずれにせよ、未来に向けての活動が中心のお話の連続であった
この辺りが生命力の元になるものかもしれない
渡辺様には益々お元気でご活躍いただきたいものである





サイファイ・カフェ SHEの2日目、終わる



今回の日本滞在の最後の仕事となるサイファイ・カフェSHEの2日目が無事に終わった
新しい方が2名参加され、新しい視点が持ち込まれたように感じた
大きな枠組みが決まった中での議論も良いが、これまでと違った風が吹くのも新鮮である
これからもこのような新陳代謝が進むことを願っている

今回の切り口は個人的な発見からスタートしたため、思想史的な側面が強調されていた
そのため、植物の生理的機能から見た本質という要素は少ない発表になったと思う
その点を求めていた方には物足りないものになったかもしれない
ただ、ディスカッションがその点を補って余りあるものになったのではないだろうか

昨日久し振りの参加が叶わなかった方が今日の懇親会に参加されていた
このようなことが起こることも面白い流れであった
どこか自在さが出てきたように感じる

次回の予定はまだ決まっていないが、来年も春・夏と秋の二回は開催したいと考えている
ひょっとすると、来年新しい活動が増えることにならないとも限らない
心身の充実が求められる年になりそうな予感がしている

今回、PAWLとSHEに参加された皆様に改めて感謝したい





2016年11月17日木曜日

第10回サイファイ・カフェSHEの初日、終わる



今日、第10回目になるサイファイ・カフェSHEを開いた
欠席が3名で、直前申し込みが1名という動きがあった
新しく参加された方は2名で、25%という割合になった
適度に新陳代謝が起こっているということだろうか

今日のテーマは「植物という存在を考える」といういつもとは少し毛色の違う内容となった
わたしが10年以上前に感じたことを考えてみたいという魂胆であった
その時、植物を初めて発見したのであった
なぜ長い間その存在に気付かなかったのだろうか?
それはわたしだけの問題だったのか、それとも人間に巣食うものの見方の歪みだったのか
そのことを歴史的に振り返ってみるというのが最初のプロジェであった

今日は久し振りに九州から参加された方もおられ、いろいろな方面に広がる白熱した議論が進行
かなり面白い話が出ていたのではないだろうか
明日はどのような展開になるのか
構成が変わると議論も想像できない方向に進んでいく
この会の醍醐味である

明日も興味を持って臨みたい




2016年11月16日水曜日

デジュネはフレンチ



今日は何十年来の友人にデジュネのお誘いを受けた
わたしが所属することになった大学から名誉博士号を授けられたというオーナーのお店である
イタリア在住の友人によると、具体的なことは分らないのだが、親日的な大学とのこと

ウィークデーということもあるのか、周りは殆ど女性客
おいしいパンを際限なく頬張りながら、年とともに傷んでくる体の話が多かったのではないだろうか
ただ、最近はイタリア語に凝っているということで充実した日常を送られていると拝察した

オーナーにご挨拶とも思ったが、丁度外出されたとのことで叶わなかった
いずれの時が訪れることはあるだろうか
東京の一等地の雰囲気を味わいながら帰ってきた

明日、第10回SHEの初日がある
いつものように、これからどれだけできるのかにかかっている
その時までには何とか話をまとめたいものである





2016年11月15日火曜日

科学を哲学する夕べ?

 (右から) 奥村康(順天堂大)、垣生園子(順天堂大)、
 葛西正孝(順天堂大)、安部良(東京理科大)の各先生 


今夜はわたしにとって実に不思議な組み合わせのディネとなった。何とも奇妙な生活をしている人間がいることに興味を持ったと思われる科学者が集まり、科学を肴にお話をするという会になった。まさに、科学を哲学するという風情であった。ある意味では、わたしが今考えているアイディアの原型を見るような思いでそこに参加していた。古くからお世話になった先生ばかりだが、このような話をしたことはなかったのではないだろうか。何とも愉快な時間で、これからは哲学しかない、と思わせてくれるひと時となった。次回の帰国時にもこのような交換の機会が巡ってくることを願っている。




2016年11月14日月曜日

記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします。

第38回 記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ

医学のあゆみ (2015.11.14) 255 (7): 787-791, 2015

お暇の折にでもお目通しいただければ幸いです。






2016年11月13日日曜日

カフェの後での変容、あるいは新たなプロジェ?



サイファイ研究所ISHEは最終ミッションとして「自らの変容」を掲げている。金曜のPAWLにおいてそのミッションを説明している時、私自身の観察として毎回のカフェの後にも変容が見られるというようなことをコメントした。サルトルに肖れば、そのために必要になるのは、前と後で自らの中で起こっている変化を詳しく観察して分類することである。この変容に至る過程も哲学であると言えるだろう。また、「科学の形而上学化」の説明では、現場の科学を終えた後に科学者ができることの一つがこれではないか、というようなことも話した。なぜならば、文系の分野で長くやった方が科学について学び考えるよりは壁が低いと思われるからである。その上で、「科学の形而上学化」は科学を文化にする上で一つの有効な手段にもなるというようなことを話した。そして、次のエッセイのテーマとして考えていたことがこれらと混然一体となった時、一つの塊が浮かび上がってきた。全く想像もしていなかった「わたしのプロジェ」となるかもしれないものだが、現段階ではまだ原石の塊。これからその塊から形を彫り出していきたいものである。





2016年11月12日土曜日

第4回カフェフィロPAWL、新会場でアリストテレスを語り合う



今回、ディスカッションの時間が長く取れる会場で第4回PAWLを開催した。当日2名の方の都合が悪くなり、欠席となったが、SHEの第1回と第2回に参加された方の4年振りのカムバックがあったり、山形から参加された院生もおられ、興味深い構成となった。これまでより30分ほど余裕ができたのでゆったりできた印象がある。終了後、会場について皆様の感想を伺ったが、いま一つ歯切れが悪かった。個人的な感触では、僅かに今回の方が良いという方が多いような印象を持ったが、誤差範囲だろう。来週の参加者のご意見も参考にしながら、今後の予定を考えて行きたい。

今回のテーマは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で問題にした人間が生きる上での最高善とは何かであった。換言すれば、人はどう生きるべきかということで、まさにPAWLが考えて行こうとしているテーマになる。今回、アリストテレスの声を聴きながら、予想もしていなかった幾つかの発見をした。

冒頭に、何かを行う時に向かうところのもの、すなわち目的が善であり、いろいろな活動において見られる目的の中でもすべてを統合するものが最高善だとある。これはどういう意味なのだろうか。アリストテレスは究極であるための条件を次のように考えていた。一つはそのものだけのために追及する価値のあるもので、別の目的のために追求するのではないものである。もう一つは、それを得れば他には何もいらないという意味で、自己充足的であること。但し、自分自身だけではなく、広く言えば社会や国にまでそれが及ばなければならないと考えていた。人間は社会的動物と言った人らしい。

この条件を見て思い出したのが、以前に取り上げたことがある藤澤令夫氏のまとめによるエネルゲイアとキネ―シスとの対比であった。エネルゲイアは目的が行為の中にあり、それを行った時には「こと」は完了していて完全であるのに対し、キネ―シスは他のものが目的なので常に未完に終わるというものである。

エネルゲイアをわれわれの生に取り込む (2010.1.2)

当時は、仕事を辞めてフランスにいたため、エネルゲイアの状態が深い充足感を齎してくれることを身を持って体験していたのだが、仕事をしている時にはその意味がよく分からなかったのではないかと思いながら読んだところになる。実はそれが究極の善の一つの基準になっていたのである。

アリストテレスはさらに人間の機能とは何か?と探索を進める。ここでいう機能とは、人間に本来的に具わる他の生物とは異なるものであるが、それは理性を伴う魂の活動であると結論している。そして、その活動を善く行うことが卓越性であると言っている。その機能を発揮させること、すなわち哲学すること、しかもそれを生涯を通じて行うことが人間の善ということになる。観想(観照)活動はそれだけのためのものであり、観ること(テオリア)だけが求められるという意味で、究極性と自己充足性という条件も満たしている。

最も善きもの、最も快適なものは、その存在にとって本性的で固有なものである。とすれば、精神生活を全うすることが最高善であり、それは同時に幸福を齎すことになる。幸福を表す言葉「エウダイモニア」には、神に祝福された状態という意味がある。ダイモーンが神と人間との仲介者を意味するので、それが良い(エウ)状態が幸福になるということだろう。つまり、知的活動だけを生涯に及び続けるということは、神に祝福された状態にあり、人間を超えた「神的生活」とも言えるものになるのだろう。ただ、人間はそんなことはできないのが普通である。そこで問題になるのが、古くから言われている精神生活と動的生活のバランスになる。その問題を解決するのはそれぞれの人に任されているのだろう。これまでのわたしの歩みを振り返れば、動的生活と静的生活を人生の中で分けるという解決策を図らずも編み出していたことが見えてくる。

ところで、先日提案したフランス語を読みながら哲学を語る会に興味を持っている方がおられることが分かった。これで希望者が複数になってきたが、もう少し様子を見ることにしたい。






2016年11月9日水曜日

第二回サイファイ・カフェSHE札幌、無事に終わる



第二回サイファイ・カフェSHE札幌が無事に終わった。始まる直前に参加できなくなった方から連絡が入った一方で、飛び入りの参加者が2名おられたのは嬉しい驚きであった。さらに、恩師の参加までいただき、恐縮至極であった。このような予想もしない流れに遭遇して、こちらのペースも上がったようである。

今回のテーマは、「遺伝子ができること、できないこと」とした。遺伝子という大きなテーマになると、いろいろな切り口が考えられる。今回は、遺伝子という概念が出来上がるまでの歴史的な過程を追うことにした。その結果見えてくる問題点を拾い上げていくと、古典的な定義の遺伝子のできることが限られていることが明らかになる。ジャンクと言われた蛋白質をコードしないDNAにも想像を超える役割が割り振られていることが明らかになりつつある。さらに、DNAの配列に依存しない遺伝の解析が進んでいる。

一口に遺伝子と言っても、その中に込められた意味をすべて掬い上げることは不可能に近いことが見えてくる。今回見たように、膨大な歴史を背負っているからであり、その機能の全貌がまだ見えていないからである。実は、多くの言葉が同じような宿命の中に在る。哲学者とは、このような言葉の意味を考える人と言ってもよいのかもしれない。もしそうだとすると、哲学者に残されている仕事は膨大なものになる。一つの言葉の意味を明らかにすることだって、英雄的な労力を要するからである。

懇親会には都合で参加できない方が多く、4名のこじんまりした会となった。しかし、哲学に興味があり、「遺伝子X哲学」で検索して辿り着いたという理系の大学生も参加。大人数ではできないような話も出てきて、興味深いものがあった。まさに、どのような構成となるかで全く違う時空間が生まれる。このような会の妙である。





2016年11月3日木曜日

研究のスタイル、研究者の哲学



先日の大阪の会で感じていたことが、いくつか浮かび上がってきた

一つは研究のスタイルに関することである
それは研究者が研究に対して持っているイメージの違いによるものだろう
意識しているか否かは別にして、研究者の哲学の反映になる

一方に、一つのことが見つかると、それを外にどんどん広げていくタイプがある
財力、人力を投入する大企業のやり方にも通じる
しかし、研究がざわざわと五月蠅くなるという印象がする

それに対して、一つのことの内に向かう静かな印象を与える研究もある
エッセンスに向かおうとしているように見えるという意味で、哲学的にも映るやり方である
アーティザナルにも見えるこのグループはどんどん少なくなっているが、私の好みのタイプになる

もう一つの対比も研究者の資質に関するものである
それは、一方の特徴が顕著に表れている研究者に気付いたことから明らかになってきた
その特徴とは、それらの研究者の中から見えてきた利他的態度である
自らの持てる知識、自ら明らかにした方法を積極的に人々に提供しようという姿勢である
外国人が入ると、その特徴がより明確な形で見えるようになる
今回、そのような研究者に対する共感が湧いてくるのを感じたので、そのことに気付いた

知的な活動とは、本来そうあるべきなのだろう
お互いの頭の中を提示して、交換し、批判し合うこと
それを意識してやることこそが知的活動の根になければならないということである
その基礎は日常的な会話の中にあるように見える
それが彼らとわれわれの間にある大きな違いにも見える

奈良の懇親会の席で彼らが語っていた中にも同様の言葉があった
それは、殆どの問題は会話することによって解決するというもの
解決しないまでも、そこに向けての糸口が得られることは少なくないのではないだろうか
口が重い身としては、耳に痛い結論であった





2016年11月2日水曜日

もう一つのカフェ (続)



先日、フランス語を読み、哲学を語るカフェのアイディアについて触れた

もう一つのカフェ?」 (10月25日)

マスターが教えるというよりは、参加者と一緒に学び、成長したいと考えているカフェである
自らに引き付けて考えやすいテーマを扱うカフェである
今のところ、この程度のイメージなので、もう少し練る必要があるだろう
考えてみれば、SHEもPAWLも同じだったと言えるかもしれない

昨日のこと、拙ブログの読者という方から都合が合えば参加したいというお便りが届いた
少なくともこのような会に興味をお持ちの方がいるということは分かった
まだ時間があるので、もう少し様子を見てみたい




興福寺で時空を超える



本日は午前中から興福寺を3年ぶりに訪れた
前回、いつでも観ることができると思っていた北円堂無著世親に会うことができなかった

興福寺中金堂へ瓦を奉納、千葉大学での講義で新しいアプローチの必要性に気付く (2013.9.13)

今回は何という幸運か、北円堂開扉の期間に一致していた
初めてその姿を目にすることができた
建物もその中に収められている彫刻も国宝となっている

弥勒如来座像
無著・世親菩薩立像
四天王立像

その周りをゆっくり何周もしながら、時が刻み込まれ別の姿になっているその像に見入る
おそらく出来立ての時には体験できなかっただろう、という感覚がそこにある
時を超え、時の中を漂う、とでも形容したくなるひと時となった

それから辺りを散策の後、国宝館
こちらも初めてになるが、素晴らしいものばかりが集められていた
すべてではないが、ほとんどが自分の感受性とピタリと合うものばかりであることに驚く
至福の時間となった


前回、平成30年の完成を目指して中金堂が再建途中で、勧進のお願いが出ていた
わたしも勧進所に入り、瓦に一筆したためて寄進した
その時に写真に収めたのだが、昨年1月のブリュッセルでの出来事のため消え去ってしまった
ただ、茫洋とした願いの輪郭は覚えている
そこへ向けて少しは進んでいるのだろうか

以前の熱気は消えている勧進所に寄って、あの時の瓦の運命を訊いてみた
すでにすべての瓦は屋根に載せられているとのこと
CGの映像で完成された時の雰囲気を味ってから帰ってきた


  興福寺 北円堂


  興福寺 国宝館






2016年11月1日火曜日

奈良で現代日本の問題点を垣間見る


   Prof. David Brautigan (Univ. Virginia, USA)


今日は奈良女子大に場所を移し、渡邊利雄先生のオーガナイズによるミニシンポジウムに参加
第一部が脱リン酸化酵素研究のこれまでとこれから
第二部は海外大学の紹介
理系女性教育開発共同機構が主催の会であった

海外からの参加者は、写真にあるブローティガン、シュノリカー、ボレンの三先生
両方のセッションで研究と大学の紹介を行っていた
東北大の田村名誉教授の20年以上に亘るお力添えが背景にあることが見えてくる
私は第二部で「パリの大学院で科学の哲学を学ぶ」と題して、個人的な経験を話させていただいた
渡邊先生のご苦労に改めて感謝したい


  Prof. Shirish Shenolikar (Duke-NUS, Singapore)


第二部を聞いていると、海外の各大学とも特徴がはっきりと表れていて、それぞれに魅力的である
昔の教育と違い、微に入り細を穿つとでもいうべき方法論が駆使されていて少々驚いた
われわれの時代の牧歌的な教育が懐かしい

多くの学生の参加があり、質疑も活発に行われていた
ただ、欧米の大学生に比べると、自分を外に出して表現することが苦手のように見える
この点に関しては、海外の先生からも指摘があった

懇親会で伺ったところによると、やはり小中高における教育が反映されているようだ
われわれの時もそうだったので、その傾向が改善されていないと言えそうだ
あるいは、外の目に対してさらに過敏になっているのかもしれない

それから、文系、理系を高校の段階で分ける今の方針に問題ありとの指摘もあった
広くものを見る必要性を訴えている私の立場からすると、その意見には同意せざるを得ない
文理に分けたり、一つの領域を全体から引き離すことが齎す影響が見えていないのだろう
ヤスパースはその結果生まれる産物をこう表現している

「おそらく優れた道具だけは所有しているが、教養というものを一切欠いた人間」

政策決定者にそれが見えないということは、同類だからなのか
見えていてそうできないのだとしたら、それはなぜなのか
どうしても理解できないところである


(左から)田村真理(東北大)、渡邊利雄(奈良女子大)、雲島知恵(奈良女子大)、
  小河穂波(奈良女子大)、D. Brautigan、S. Shenolikar、Mathieu Bollen 
  (KU Leuven, Belgium)、吉田信也(奈良女子大)の各先生


懇親会がお開きになる頃、やっと科学と哲学の話題になってきた
この問題に興味を持っているのは私一人だったからだろう
今回は学生のために日本語で話すように指定されていた
そのため、海外からの参加者は何を話していたのか分からなかったはずである
ただ、スライドは覚えていて、その内容を訊いてきたところからディスカッションが始まった

彼らの精神が明晰を求めていることが分かる
自分が分からないことを認め、それを確かめようとするごく当たり前の精神と言ってもよい
いつも感心している彼らの特徴である
日本の教育に絡めれば、これを育む何かが欠けているということになるのだろうか

最後は、科学が明らかにしたことが本当に世界を表しているのかという問いに向かって行った
実は、科学者が一番哲学者に近いところにいるのではないか
そう考えざるを得ない展開であった
今度は場所を変え、英語での発表の後、最初からディスカッションをやってみたいものである


ところで、ボレンさんから600ページになんなんとする出たばかりの本をプレゼントされた
トマス・モアによる 『ユートピア』 の出版500年を記念してルーヴェンの研究者達が書いた本である

'A Truly Golden Handbook': The Scholarly Quest for Utopia (Leuven UP)

彼は研究に忙しいので、一日中暇な私にぴったりと思ったようである
いずれにしても、嬉しい贈り物であった