2018年12月30日日曜日
年の瀬に、自由とは
今年も残り一日となった
このところ、曇天、霧、雨の毎日である
その中で、最後の二週間を純に使うことができたのは幸いであった
この間、一日がとてつもなく長いことに驚きながら過ごしていた
時の流れがあるとすれば、そのすべてをがっちり掴んでいるという感覚
時間を止めているような感覚と言ってもよいだろうか
これを自由と言うのだろう
そのためかどうかはわからないが、いくつか纏まりを作ることができた
最後の一日にも期待したい
新しい年もこの感覚を持ちながら歩みたい、というのがいまの心境だろうか
そして、想像もしなかったような出来事が起こることも密かに期待したいものである
2018年12月27日木曜日
今年を振り返る
今日は寒い
久し振りの景色である
年の瀬を迎え、来し方を振り返る心境になっている
2007年秋にフランスに渡ってから数えると11年が経過し、12年目に入っている
10年やればプロですよ、という誰かの言葉が頭に残っていたからだろうか
10年間くらいは目的を決めずに歩む修行時代だとぼんやり考えていた
これからはその時代の蓄積を解きほぐす時間ではないかという思いが湧いている
今年に絞って振り返れば、免疫に関する初めての訳書を刊行することができた
訳書について言えば、微生物学に関するものを来年3月に刊行するための準備が進んでいる
それから、論文を書くということを久しぶりにやってみた
免疫と認識に関する仮説を思いつき、専門家の意見を聞いてみたいと思ったからである
それを受理してもよいという雑誌があったのは幸いであった
これまで論文を書こうなどという考えは全く浮かばなかった
その理由は専門の枠(決まりごと)の中に入ることに抵抗があったからではないかと思う
ここに来て、その抵抗感がなくなったということだろうか
また今回、自分の考えを問うという作業が自分の考えを磨くことにも繋がることを知った
このような流れを見ると、いま、大きな転換期を迎えているような感触がある
今年はその始まりの年だったと振り返る時が来るような予感がする
2018年12月25日火曜日
平穏なクリスマス、渡辺氏のレジオン・ドヌール勲章受賞を寿ぐ
クリスマスの一日
申し分のない快晴で、ときに飛行機雲が現れる
朝からアメリカのクリスマス・ソングを流しながらゆっくりと紫煙を燻らす
いくつかアイディアが浮かんできた
ボストンでの最初の年の雪の中でのクリスマスも蘇ってきた
これ以上ない時間となった
ところで、本日久しぶりに日本パスツール財団のフェースブックを訪問
代表理事の渡辺氏が12月17日にレジオン・ドヌール勲章を受賞されていたことを知る
長年の功労がフランス政府から認められたことを共に寿ぎたい
これからもお元気で日仏のために活躍されることを願いたい
また、来年もご指導いただければ幸いである
2018年12月23日日曜日
2019年のISHEプロジェクトを決める
もう少しで新しい年を迎えることになる
その前に来年のプロジェクトを組み立ててみた
継続されるものが多いので、目新しいことに手を出す余裕はなさそうである
ISHEプロジェクト2019
来年も当研究所の活動にご理解をいただければ幸いです
よろしくお願いいたします
2018年12月17日月曜日
内発的な籠りへ
今年も残り2週間となった
幸いこの時間を純粋に一つのことに使えそうである
ということで、再び籠ることになる
最近の籠りとの違いは、それが内発的なものだということだろうか
どのような展開になるのかは、いつものように分からない
しかしその結果は、これから先を占う上で参考になりそうである
2018年12月16日日曜日
今年のISHEプロジェクトを振り返る
年の瀬を迎え、今年のサイファイ研ISHEの活動を振り返る時期が来た
当初の計画に照らしながら振り返ってみた
ISHEプロジェクト2018を振り返る
サイファイ研究所ISHEの多くのプロジェクトは皆様の協力があって成り立っております
今年、ISHEの催し物に参加いただいた皆様に改めて感謝いたします
来年も当研究所の活動にご理解をいただければ幸いです
2018年12月15日土曜日
ジレ・ジョーヌのフランス
今日のトゥールは終日の雨
時に雨音を、時にクリスマスソングを聴きながら、静かに過ごす
ところで、フランスではGilets Jaunesのデモが盛んになっているようである
最初はいつものように大使館からの連絡で知った
日本では大々的に報道されているのだろうか
心配するメールが届いていたのでそう想像していた
先週末に街に出た時には、雨にもかかわらず大勢の黄色いベストの人が道や広場に溢れていた
そのためか、普段開いている広場に面した店も閉まっているところがあった
今週末はさらに大きくなるとの話もある
昨日パリから戻ってきた時も町の中心部は人が溢れ、トラムは通れなくなっていた
届いたばかりのル・ポワンでは、この問題を歴史的に検討する記事が特集されている
革命の国フランスである
これからどのような展開を見せるのか、目が離せない
2018年12月14日金曜日
全体をイメージした後の「いまここ」
先週バッグを忘れたのでカフェに寄って確かめる
ちゃんと取っておいてくれたのでホッとした
ところで、先週のパリでも感じた変化がある
これまでは特に計画せずに行き当たりばったりに街中を移動していた
予め決められたところを行くことに抵抗があったからかもしれない
それが今回は、その日の移動の全体を頭に入れて動いているようなのである
全体をがっちり掴んだ上での「いまここ」なので、精神的な安定感が全く違う感じがする
これは効率と関係あるのだろうか
おそらく、最初に効率化という考えがあってのことではないだろう
なぜなら、それは最も嫌うものだからだ
そうではなく、全体を掴むというところに意味を認めた結果ではないだろうか
これは街中の移動だけではなく、他のことにも当て嵌まりそうである
特にプロジェに当たる時などには、意識して当て嵌めた方がよいのではないか
そんな考えが浮かんだ非常に寒い早朝のパリのカフェである
上の写真は昨夜ENSで見つけたものだが、サイファイ研ISHEのロゴと繋がっている
今日の発見も知恵に繋がるものであることを願うばかりだ
パリで恩師の追悼の会を聴く
今日は午後からパリに出た
マスターの時の指導教官だったジョン・ガイヨン教授へのオマージュの会があったからだ
今回は、これまでに関係があった人を招いてのターブル・ロンド
それぞれの思い出やガイヨン教授の研究スタイルなどについて議論された
上の写真の左から2番目は、科学史家のミシェル・モランジュ教授(ENS)
モランジュ氏によるガイヨン評は以下のようなものだった
真面目で仕事に時間をかける人で、文章は学問的でやや単調なところがあった
科学者が語った後に最終的な一言を言う哲学者ではなく、対等な対話を大事にしたとのこと
それから世界的な共同研究のネットワークの中で若手を育てたことを評価する人もいた
大学人、教育者としてのガイヨン氏だが、この点は同感である
左から3番目は、ジャン・ピエール・シャンジュー教授(コレージュ・ド・フランス)
ガイヨン氏とはいろいろ議論したようである
しかし、聞き間違いでなければ、神経系の話には興味を示さなかったようである
シャンジュー氏が説得できなかったという言い方もしていた
他にも大きな問題を抱えていたので余裕がなかったのではないかと指摘する人もいた
アンナ・ソト教授とカルロス・ソネンシャイン教授(米国タフツ大学)
ところで、今回の会のことはソネンシャイン教授からのメールで知ることになった
実は以前にここで取り上げたことがある方である
思いがけないお誘い(2018年9月21日)そのお誘いが今日実現したことになる
お話を伺うと、アルゼンチン出身でお二人とも最初は医者をやっていたが研究者の道へ
がんがご専門のようだが、次第に哲学にも興味を持つようになったという
その道がわたしと重なるので、是非話をしたかったようである
そして、わたしにとっても実に興味深いお話を伺うことができた
こういう出会いが人生さ、と言うカルロスさん
久しぶりに痛快さを味わった
何もなければ、近い将来に再びパリでお会いすることになりそうである
2018年12月12日水曜日
初校ゲラの擦り合わせ、終わる
編集者が手を加えた初校ゲラとの擦り合わせがやっと終わり、日本に送ることができた
かなり難しいと思っていたので、予定通り終わったのは奇跡に近い
これで滞っていたところに戻ることができる
そこでも今回のような集中ができれば素晴らしいのだが、そうは問屋が卸さない
のが、これまでだ
残り僅かの年内にひと塊くらいは作っておきたいところだが、、
2018年12月7日金曜日
トゥールに戻り、再び籠る
今日は二日間に亘るシンポジウムをゆっくり振り返りながらトゥールに戻ってきた
パリのメトロには、ロワール川沿いのお城でクリスマスを、という宣伝が並んでいた
トライしてみるのも面白いのではないだろうか
今回同様、予期せぬ発見が待ち受けているかもしれない
そんなことを考えていたせいか、荷物をカフェに忘れてきた
ところで、まだ今年は終わっていない
取り敢えず、当面のお仕事に向き合わなければならない
ここ数日が山というところだろうか
どのような展開になるのか目が離せない
再び籠ることになる
2018年12月6日木曜日
シンポジウム「医学における人間」終わる
今日はシンポジウム二日目で、朝から出かける
昨日もそうだったが、メトロの人の流れが速い
東京ほどではないが、それでも普段とは違う緊張感が溢れている
会は昨日参加できなかったディドロ大学学長のメッセージの代読で始まった
朝のセッションではやや哲学的な分析が発表されていた
ケアの新しい概念やEBMに代わる価値に基づく医療(VBM)についての考察である
そこで問題になるのは知識対価値の対立で、現代のあらゆる領域に表れている
突き詰めれば、それは人間の在り方に関わるものである
遺伝子解析の進歩に伴う問題を、あるシンポジウムのまとめという形で報告している人もいた
それから医学教育のパラダイムを変換する必要があるという発表もあった
知識や技術偏重から思考や倫理重視への変換である
そこで重要になるのが人文科学という訳だが、教育の中で具体化することは難しいようだ
この点は4年ほど前に同様の会に出た時にも問題になっていた
そんなに簡単なものではないのだろう
今回の発表は殆どが一つの研究を二人で交互に読み上げるという形を採っていた
このプロジェクトは「学際」をキーワードにしているので、自然の流れなのかもしれない
他にも興味深い発表があったが、今日は時間切れになった
会の様子は別の場所で纏めるのがよいのかもしれない
明日、トゥールに戻る
2018年12月5日水曜日
シンポジウム「医学における人間」を聴く
今日は朝からディドロ大学に出かけた
ビュフォン講堂で開かれた「医学における人間」と題されたシンポジウムを聴くために
医療現場ではどのようなことが問題になっているのか、何を問題にしているのか
そういう疑問があったからだろう
午前中の話から少しだけ
今回のタイトルは、現在進行中の共同プロジェクトの名前でもあるようだ
医療に関わる人たちの学際的で国際的な研究と実践がテーマのようである
18世紀辺りまでは患者が個人であることが隠されていた
今日では医療の個別化が進み、主体化も問題になり、新しいケアの概念が求められている
特に問題になっていたのは、病気の慢性化にどう向き合うのかである
例えば、小児白血病のような場合、子供から大人になるまでをカバーすることがある
その移行にどのように対処するのか
人生を病気と共に生きなければならない人がいる
病気と共にある人生のよい形とは何を言うのか
移植患者は、移植を外科的で形而上学的な冒険だと捉えているという
前と後があるのだ
それが人間の再生につながることもあるが、負い目の感情が生まれることもあるという
創造的であると同時にトラウマになることがあるということだろう
慢性疾患患者の場合には、明確な前と後がないようにも見える
このような問題を扱う医学人文科学のようなものの必要性も問題にしているようであった
議論になると、現場の経験から生まれた問題がテーマになるので細かい話になる
そのような場を具体的にイメージできないわたしのような者は付いていけない
もう少し哲学的な考察に重点を置いた発表があってもよかったように思う
ただ、プロジェクトのための予算獲得が背景にあるようなので難しいのだろうか
明日も参考のために出てみることにしたい
久し振りのメトロの駅も大学界隈も懐かしいものに感じられた
しかし暫くすると、以前からここにいるような気になってくる
この感覚は不思議だが、悪いものではない
2018年12月4日火曜日
パリで歓談、若き日を思い出す
今日は朝からパリに出ている
明るいうちは仕事をしたり、パリカフェの会場が新しいところなので確かめたりしていた
午後雨になり、その中を歩いていたのでびしょ濡れ
夕方、カフェで休んで体を乾かす
夜はパリでご活躍の若手研究者の方にお忙しいところ時間を割いていただいた
改めて感謝したい
今日はパリのことや研究のこと、それからこちらで活躍している若き日本人の話を伺った
いろいろな才能を持つ人がいるようである
それからアメリカとヨーロッパ文化の違いも話題になっていた
土地に根ざす人の感覚から見れば、その違いは想像以上のものがあるようだ
わたしなどは、目覚めつつある段階になるのだろうか
また、30代はこれからの道を模索する時期のようである
皆さんがそのような状況にあることを聞き、自らの若き日を思い出していた
普段は籠っているので、このような機会は外に開く貴重な時間になっている
2018年12月2日日曜日
初校ゲラの見直し終わる、そしてある数字に圧倒される
暫く籠ってやっていた初校ゲラの見直しが昨日終わった
まずは一段落だが、これから編集者ゲラとの擦り合わせが待っている
やはり時間はかかるものである
そうこうしているうちに、今年も残りひと月となった
そろそろ今年の総括と来年の計画を立てる時期に差し掛かったことになる
ところで籠っている時の暇つぶしに、これまでのブログについて振り返ってみた
2005年に始めた「フランスに揺られながら」から数えると、日本語版11、仏英版が3つになる
現在動いているのが7つというところだろうか
驚いたことに、これら14ブログのページビューを合わせると300万を超えることが分かった
そのほとんどが最初の4つのブログのもの
上記のものに「パリから観る」 、「パリの断章」、「科学、医学、哲学を巡って」が加わる
この数字がどれだけ正確なのかは分からないが、兎に角、多くの方の目に触れたことになる
「人生は数字ではない」は私のモットーの一つだが、それでも圧倒される数字ではあった
2018年11月30日金曜日
第2回パリカフェのご案内
第2回パリカフェを以下の要領で開催いたします
日時: 2019年1月11日(金)18h~20h
テーマ:「最小の認識を考える」« Penser le problème de la cognition minimale »
会場:Ozanne conseil
12, Rue du Bouquet de Longchamp, 75116 Paris
Métro : Boissière (ligne 6) ou Iéna (ligne 9)
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
よろしくお願いいたします
2018年11月25日日曜日
ゲラの見直し再開
昨日の朝方、霧に霞んでいたが、次第に晴れ上がってくれた
朝早くから小学生が思い思いのスタイルでグラウンドの周りを走っていた
遊びがある姿を見るのは精神衛生に良いようである
ところで、現在抱えている翻訳の最初のゲラ見直しを再開できる精神状態になってきた
日本での活動のため、暫く中断していたものである
先日の日本で刊行予定が来年2月下旬に設定されていることを知った
これから少なくとも1週間は籠る必要がありそうだ
2018年11月22日木曜日
早速街へ
今日も朝のうちは曇っていたが、午後からは快晴だ
街に出るとお馴染みの景色が現れ、なぜか気持ちが落ち着く
ネットの問題を処理するために出たのだが、それもスムーズに終わりホッとする
午後は路上のカフェで過ごす
寒いので寝ていられないのがよいところか
どこまでやることができるのか興味深い
帰りにスーパーに寄った
野菜などを選び、重さを計ろうとしたその時だった
店員さんが後ろからさーっとやって来て野菜をリストから選び、ヴォアラ!
何とリズム感ある流れだったことか
こういうことは日本では起こり得ない
遊びのある空間は精神衛生に良い
街はもうクリスマス気分だ
2018年11月21日水曜日
天空のフランス
今朝のパリは完璧な快晴で、霜が降りる肌を刺すような寒気
トゥールの空も同じ
静かな町に戻ってきた
昨日、空の上にいる時、かなり昔のことが頭に浮かんできた
アメリカの学会に向かう機内で、なぜか幸福な気分になったのだ
地上から足が離れ、具体的なものが消えた状態で空を彷徨っていることがそうさせたのか
地上と天空
天空をいま解釈し直せば、それはプラトンのイデアの世界なのだろうか
潜在的に、雑然とした地上から離れて透明な世界へ向かうことに憧れを抱いていたのか
わたしのフランスは、飛行機から降りてもまだ、天空のままなのかもしれない
今回の日本滞在を始めた時の記事と繋がったようだ
フランスでイデアリズム、日本でリアリズム?(2018.9.2)
2018年11月19日月曜日
瞑想から思考の充実へ
昨日、暫く眠っていたプロジェに急遽対応しなければならなくなった
かなり時間がかかると思ったのだが、今日の夕方には片付いていた
自分でも考えられないことである
考えを纏める上でも瞑想や思考空間の広さが関係してくるのだろうか
「瞑想 → こころの安定:思考空間の広がり → 繋がりの見つけ易さ → 思考の充実」
想像しているだけだが、こんな流れがあるのではないだろうか
ただ、これはあくまでも主観の世界で、そのアウトプットを評価するのは他の人に任されている
いずれにせよ、明日すっきりしてフランスに向かうことができそうである
2018年11月18日日曜日
滞在の最後も忙しいのだが・・・
昨日の会で今回の滞在の行事を終えたことになる
今回もまた、来る前には想像もできなかったようなものを齎してくれたように思う
この数か月を向こうで過ごしていたのでは得られなかったことが起こったとも言えるだろう
ただ、現在抱えている他のプロジェに当たる気分にはならなかった
日本の準備が整わない状態で来ているため、頭が他のプロジェに向かわないからだ
これからの静かな時間がそのための空間を用意してくれるだろう
このようなやり方の方が、リズム感が出てよいのかもしれない
しばらく様子を見ることになりそうだ
ところで、上のプロジェとは別のプロジェに急いで当たらなければならなくなった
日本を出る前に終わらせなければ間に合わないかもしれない
最後まで息が抜けない滞在になりそうだ
最後くらいはのんびりしたいと思ったのだが、致し方ない
ただ、この状態でもこころは穏やかなままなのは驚くべきことである
何度も触れているが、仕事をしていた時には考えられないことだからである
これは、ここ10年の瞑想の効果だと決めてかかっている
2018年11月17日土曜日
第4回サイファイ・フォーラムFPSS、無事終わる
今日の午後、日仏会館において第4回のサイファイ・フォーラムFPSSを開催した
今回は日程が合わない方が多く、直前で都合が悪くなった方もおられたが、7名の参加をいただいた
また、最初の演題募集では希望者がいなかったが、再募集で2名の方が応募された
その伊藤明子、岩倉洋一郎両氏に発表をお願いした
前回より発表時間と討論時間を長く取り、それぞれ25分、45分に設定した
それでも何とか時間内に収めることができたという感じであった
皆様のご協力に感謝したい
以下に、わたしの視点から見た簡単なまとめを記しておきたい
発表の詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である
伊藤氏のテーマは目的論で、カントの有機体論との絡みで分析を進められていた
アリストテレスの4原因説では、質料因、形相因、作用因、目的因が設定されている
この見方は長い間定説として機能していたが、現代科学では目的因が排除されている
何のために?という問いは、それを決めている何かを想定しなければならないからだろうか
現代の生物学者は、なぜ?という問いを発しない
目的論を相手にしないところがある
ここでは、この問題に対するわたしの捉え方について、簡単に触れておきたい
目的論というものは、一つの考え方として確かに存在している
現代生物学がそれを排除したとはいえ、元は共にあったものである
であれば、それがどういうものなのかを知ろうとする態度を採る
その上で、科学における目的論の位置を改めて検討することになるだろう
現代生物学の外にあるとされる目的論
しかし、このような問題も科学の中にあるものとして捉え直す必要があるのではないだろうか
それは、科学に関する教養と言ってもよいものである
科学を取り巻く問題についても考えてみるという態度が、これからは欠かせないだろう
岩倉氏のテーマは、発生工学技術の進歩とそれが齎す問題についてであった
最初に発生工学技術の実際と発展の歴史について概説された
その後、ご自身の研究の進展過程で生まれた疑問について提示された
生殖系遺伝子の改変技術には、いくつかの問題が内在している
例えば、技術自体の不安定性や不確実性、遺伝子改変による発がん性や想定外の副作用など
しかし、これらの問題はいずれ解決されると見ていた
解決が難しい問題として残るのは、倫理に関わるものである
例えば、そもそも遺伝子操作はすべきものなのか、そうでないのか、善か悪かという問題
これは単に病気の治療だけではなく、健康な人の能力増強のための遺伝子操作も含まれる
これらの問いに答えるためには、人間や生命についての価値観の共有が不可欠である
しかし、それをどのようにして達成するのか
さらに、原子力、人工知能、遺伝子操作の研究の進展を我々は制御できるのか、すべきなのか
あるいは、制御という問題をどのように考えるのか
これらの問題はまだ解決されておらず、今まさに哲学的思考が求められる時に来ている
哲学の側は科学をより学び、科学の側も科学を取り巻く哲学的な問題に目を開く必要がある
このような相互作用が必要になると結論されていた
二つの発表から見えてきたことがある
それは、科学だけでは処理しきれない科学の現場を超えた問題が浮かび上がっていること
今回の場合は、目的論という哲学的な問題であり、科学技術を扱う際の倫理的な問題である
これらの問題は、科学だけではなく、哲学や倫理の知も動員しなければその輪郭が見えてこない
ましてや解決など覚束ない
このような問題が次々に現れるのが現代の状況ではないかという印象を強くした
その意味でも、知に関わる人たちは広い構えを持った内的空間を準備しておく必要があるだろう
2018年11月16日金曜日
恒例の歓談
今日はこのところ恒例になっている学友とのデジュネがあった
お二人とも仕事をされており、そういう学友が殆どなので、日本にいると自分が異常に見える
実際、そうなのかもしれない
いつも話題に上がるのは日本の状況
その精神性の問題である
精神性に優れたものがなければ、世界からは真の尊敬は得られない
わたしは、最近書いたエッセイを基に話を進めた
それは、広く見れば現代世界の問題にもなるだろう
非常によく理解していただいたようである
その他にも「話に花が咲いた」話題がいくつかあった
来年もまた花を咲かせたいものである
2018年11月15日木曜日
第4回ベルクソン・カフェの二日目終わる
本日は第4回目になるベルクソン・カフェの二日目を開催した
2名の欠席があったが、写真の9名の皆様に参加していただいた
今回は参加者の皆様に積極的に読むところに加わっていただいた
そのせいかどうかわからないが、いつになく質疑応答が充実していたように感じた
その中で、講師の解釈に誤りが見られ宿題となった部分もあった
今回も中休みが参加者だけではなく講師にとっても好い効果を及ぼしたようだ
最後まで読むのは難しいと予想したのだが、かなりはしょったものの終えることができた
お忙しい中、参加していただいた皆様に改めて感謝したい
今日はピエール・アドーさんの「死ぬことを学ぶ」の後半を読んだ
今回のテーマに、自然学(la physique)も魂の鍛錬になるということがある
一つの例としてアリストテレスの自然学があるが、それはこんな具合だ
自然学はそれ自体が目的になる観想的営みで、日常の心配事を除くことにより平静と悦びが得られる
原因に遡ることができる真の哲学者であれば、自然はその素晴らしさを研究する者のためにある
ストア派のエピクテトスは、我々の存在意義はこの観想の中にあるとまで言っている
つまり、我々は神の作品を観想するためにこの世に生まれた
そのため、奇跡的傑作を観、自然と調和して生きた後でなければ死んではならないと言う
この感覚はわたしの中にも生まれているので、ストアの影響が現れているのだろうか
二つ目は、フィロンやプルタルコスの空想的自然学がある
これはアリストテレスの自然学に比べると、科学の度合いが薄くなる
彼らの自然学は、思考の中で月や太陽や他の星と一体になるというような考え方をする
彼らの体は地上にあるが、魂には翼が具わっていてエーテルの上を歩き、地上を観想できる
まさに世界市民に相応しい
彼らはすべての人生を祝祭にするのである
それから、全体を視野に入れ、普遍的思考へと上昇するレベルがある
ここでプロティノスの全なるもの(le Tout)が出てくる
以下は表面的理解に基づくものである
我々は元々全なるものであったが、そこに何かを加え、自分ではないものになっていく
全なるもの以外を拒否すれば、全なるものはそこにあるのが見えてくる
それによって成長することになる
新プラトン主義では魂の進歩という概念を取り入れた
プロティノスの弟子で著作の編纂者でもあったポルピュリオスは、進歩を3段階に分類している
「体からの分離による魂の浄化」、「感覚的世界の超越」を経て「知性と一者(l'Un)への回心」と進む
一者とは、存在するすべてが由来する存在を超えた第一原理を意味しているようだ
プロティノスは、ものの本質は純粋な状態で検討しなければならないと言う
それ自身でないものを取り除いて、そのものを検討するのである
それを外の対象だけではなく、自分自身に対しても行うこと
自分自身の純粋な状態を調べると、魂の不死性も信じることができるようになる
この過程には魂の鍛錬が決定的に重要になる
魂の非物質性と不死性が見えないのは、この営みが欠けているからである
魂の鍛錬により、単に善を知るだけではなく、善と一体になることがある
最早自分自身ではなくなり、一者と一つになることもあるという
ここまで来ると神秘的な世界である
今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です
ご覧いただき、コメントなどをいただければ幸いです
2018年11月14日水曜日
日本パスツール財団再訪
本日、日本パスツール財団を訪れた
財団のプロジェクトについてお話を伺った
今年は来月18日の日仏セミナーを残している
テーマは「アジア・アフリカにおけるエビデンスに基づいた感染症対策の発展」
興味をお持ちの方は、上のサイトをご覧いただければ幸いである
来年も春夏秋冬にいろいろな会が計画されているようである
その中の一つに、わたしが関係するものが入るかもしれない
それは、現在出版準備中のパスカル・コサール著『これからの微生物学』(仮)に関係している
今年6月のフィリップ・クリルスキー博士の講演会のような会ができないかというものだ
このようなプロジェクトに関わることは、サイファイ研ISHEのミッションとも一致する
まだ実現するかどうかわからないが、そこに向けてできることはやって行きたい
そう考えながら財団を後にした
2018年11月13日火曜日
奈良再訪
午前中は木曜のベルクソン・カフェの準備をする
会の直前までかかるかと思ったが、奇跡的に何とか最後まで目を通すことができた
ということで、午後から奈良の町を散策することができた
今回は時間がなかったので、奈良公園の方に歩く
途中、宗教団体の20-30人のグループが声を上げながら歩いてきた
全身に力が漲っているようであった
まず興福寺へ
何年か前に瓦を寄進した中金堂も完成して中を見ることができた
入場券を売っている人によると、瓦は屋根に上がっているかもしれませんと頼りない
法相宗の始祖を柱に描いた法相柱は新しく、興味深いものがあった
中金堂では大黒天立像が気に入った
それから国立博物館へ
正倉院展を観ようと思ったが、昨日で終わっていた
係の人によると、日美で取り上げられるといつも人で溢れるという
特に昨日は大変な人出だったという
今日は新館が閉館、なら仏像館だけが空いていたようだ
そこで豊穣の2時間を過ごした
途中ボランティアによる解説があるとの放送があり、目の前が受付だったので申し込む
聞き慣れない言葉が次々に出てくる中、仏像の見方の初歩を教えられていたようだ
これからの参考にしたいものである
参加者の中には、いろいろなお寺を巡っている方もおられ、解説者と話がよく噛み合っていた
仏像館のカフェでこの記事を書く
空は今にも降り出しそうな曇りで、寒い
2018年11月11日日曜日
第4回サイファイ・フォーラムFPSS、迫る
第4回サイファイ・フォーラムFPSSが今週の土曜に迫ってきた
今回議論するテーマは、目的論と発生工学の技術にまつわる問題についてである
以下にその要旨を紹介したい
(1)伊藤明子: 目的論の有用性と実在性について
アリストテレスが唱える事物の生成変化の四原因の一つである「目的因」は、近代科学の幕開けとともに否定され、ダーウィンの登場に至っては、科学からはもとより、哲学からも完全に駆逐されたと一般には捉えられています。しかしその間、カントは有機体の考察にあたってアリストテレスに遡る「目的論」という概念を敢えて採用し、「目的因」を復活させました。本発表では科学哲学の論文や分子生物学者の試論を参照しながら、目的論の今日における「有用性」と「実在性」について検討していきます。これは、発表者が現在取り組んでいるカントの『判断力批判』について考察した「有機体論の新たな解釈の可能性について」の研究の一部です。特に科学研究者からの忌憚のないご意見を頂戴できれば幸いです。
(2)岩倉洋一郎: 発生工学技術の進歩と人間存在について
近年の発生工学技術の進歩は目覚ましく、胚や体細胞から多分化能を持つ全能性の幹細胞を作り出し、これを子宮に戻してコピーを作り出す手段を獲得した。また、これらの全能性幹細胞、あるいは胚の遺伝子を操作することにより、これらの遺伝形質を改変した個体を作出する技術も手に入れた。したがって、今や我々は従来我々の固有の遺伝形質と考えてきた種々の表現型、つまり、容貌や身体能力、知的能力、病気に対する感受性などを自由に改変できる可能性を持つことになった。このことは、我々にそのような技術の利用をどこまで許すのかという倫理的な問いと同時に、人とは何か、生物とは何かという根源的な問いかけを投げかけることになった。発生工学技術の紹介をしながら、みなさんと一緒にこうした問題について考えてみたい。
日時: 2018年11月17日(土)13:40~16:30
会場: 日仏会館5階 509会議室
よろしくお願いいたします
2018年11月10日土曜日
今日は、死に方を学ぶ
死ぬことを学んだ昨日の今日なのだろうか
ネットに繋がると、すぐにこの映画が現れた
『ガンジスに還る』
死期を悟った父親が聖地バラナシで最期を迎える
その間に彼を取り巻く人間関係が描かれるが、今の自分にはさざ波程度にしか見えなかった
ということで、強い印象を残すところまでは行かなかった
その昔、我々の研究室でバラナシ出身の研究者が2年ほど研究していたことがある
最初の日、バラナシについて書かれたペンギンブックスを手渡してくれた
それ以来、この地には興味を持っていたので、町の景色にはなぜか懐かしいものがあった
今行っても今日の映画のままにあるのだろう
劇場のサイト情報では席に余裕がありますとのことだったが、ほぼ満員
死を巡る問題は多くの人の関心事になっているのかもしれない
第4回ベルクソン・カフェ、初日終わる
今日、第4回のベルクソン・カフェを開催した
4名の方が欠席となったが、写真の6名の方が参加された
お忙しい中、参加いただいた皆様に改めて感謝したい
今回のテーマは「死ぬことを学ぶ」で、半分の4ページを終えることができた
準備段階では終えるのは難しいのではないかと考えていたので、驚いた
これまでは休憩なしで3時間読み続けたが、今回、中休みを入れることにした
その時にいろいろなディスカッションが出てきて、講師も気分転換されたのだと思う
それが後半に勢いをつけたのではないかと疑っている
ピエール・アドーさんのテクストの簡単なまとめを以下に
いつものように対立する概念が出てきて、頭が整理される
そのような論の進め方をする
不変の規範の世界、普遍的な理性を要求するロゴス
それに対して、永遠の生成、肉体の変わりやすい欲求
この対立の中で、ロゴスに忠実な人間は生命が危険に晒される
ソクラテスはそのために命を失ったのである
これがプラトニズムの基礎を成している
つまり、優れた魂は肉体の生の上に善や徳を置く
ソクラテスは良心が要求することを放棄するより死を選んだのである
この選択はまさに哲学的選択で、哲学は死の鍛錬であり、学習であると言えるだろう
プラトンの『パイドン』で論じられているように、問題となる死は魂と肉体の分離である
魂が肉体の感覚に関係する情動を取り除くことである
それは一方的で感情的な視点から解放し、思考を普遍的で規範的な視点に高める努力である
この鍛錬は、自分自身への思考の集中、瞑想、内的対話を前提としている
「死の鍛錬としての哲学」というフォルミュールは、西欧哲学の中に大きな影響を及ぼした
プラトン主義に敵対するエピクロスやハイデッガーもそれを取り入れた
このフォルミュールを前にすると、すべての哲学的お喋りは空っぽのものに見える
哲学者が死について書いたものには、「明晰さ」という特別の徳が見られる
エピクロスによれば、死を考えることは存在の有限性を意識すること
それが瞬間に無限の価値を与える
ストア派の人は、死の学習の中に自由の学習を見る
モンテーニュに、「哲学することは死ぬことを学ぶこと」という有名なエッセイがある
そこでセネカを剽窃して、死ぬことを学ぶとは隷属することを忘れることだと言った
死を考えることは、内的生活の品位と水準を変容させる
ハイデッガーにとっても、哲学とは死の鍛錬である
死を明晰に理解することがオーセンティック(真正)な自分を発見し、創造する切っ掛けとなる
つまり、死が自分の身にも降ってくることを理解した時、自分の意識は内に向かうようになる
真の自分を求めようとする
真の自分への道を開く「明晰さ」か、あるいはそこから目を逸らす「気晴らし」か
その選択は各人に任されている
まさに哲学的選択である
死の鍛錬とは、「全体」の瞑想と、個人的な主観から普遍的な客観性への移行とに関連する
つまり、純粋な思考の鍛錬のことである
哲学者のこの特徴は、古代には「魂の高貴さ」と言われた
それは思考の普遍性の果実である
哲学者の思弁的で瞑想的なすべての仕事は魂の鍛錬になる
今日のまとめは、近いうちに専用サイトに掲載する予定です
2018年11月7日水曜日
明晰さか気晴らしか、ベルクソン・カフェ近づく
当地の滞在も終わりに近づいてきた
最近になり、いい感じの生活のリズムが掴めてきたと思ったところだったのだが、
いつもこういうものである
丸山健二氏が言うように、コツがわかった時には終わっているのだ
さて、第4回のベルクソン・カフェも近づいてきた
今回は「死ぬことを学ぶ」がテーマだが、それはどういうことなのか
死を前にしてどう生きるのか、ということになるのだろうか
死に向かう存在が人間だとすれば、この問いは人間はどう生きるのかということに帰着する
そのために重要になる一つが、「明晰さか気晴らしか」の選択ではないだろうか
かなりの分量なので、どれだけこなせるかが課題になりそうだ
2018年11月4日日曜日
そろそろ変なおじさんか
昨夜カフェに行くと、ジャズトリオの演奏が始まるところだった
店員さんに訊くと、地元の若者だという
今回は女性のピアニストが売り込んできたようである
彼女のパリ訪問時にエッフェル塔から見た夜景に触発されて書いたという曲も演奏していた
想像以上に良い演奏だったのではないだろうか
カフェで演奏をやるのは稀とのこと、思わぬプレゼントをいただいたようである
今日も申し分のない天候で、気分良く一日をスタートした
図書館が生徒さんで満員になっていたため、午前、午後とも同じカフェとなった
もうそろそろ変なおじさんになっているかもしれない
このところ感じている「こと」の流れの特徴がある
それは、そうなるよう想像していたことが想像もしなかったようなやり方で起こるということ
結果は同じなのだが、そこに至る道が想像を超えているのだ
そこにわたしの力は全く働いていない
実に不思議である
2018年11月3日土曜日
自然の中での瞑想とサイクリング
今日は驚くほどの快晴で、これぞ日本晴れか
しかもここでは日常となる風が全くない
日の光を浴びていると、予定を変え、今回発見した秘密?の公園に出かける気分になってきた
ということで、朝から出かけた
川縁に椅子を出し、暫しの間瞑想
わたしの瞑想は無を目指すのではない
寧ろ、いろいろな考えが浮かび上がるように、こころの状態を緩く構えるのである
仕事をされている方には、専門の境界を取り払うと言えば分かりやすいだろうか
こういう時に、使えそうなアイディアが出ることもあるし、何もないこともある
しかし長期的に見ると、思考空間を広くする効果があるのではないかと想像している
午後からは軽いサイクリング
大分慣れてきたようで、自然の中を風を切って進むのは実に気持ちがよい
自然の中での瞑想と言い、自然の中で体を動かすことと言い、こころが外に浸み出す感じがする
extended mindという考え方を思い出す
extended cognitionの一つとされている
どこかの雑誌にでも出ていそうな写真を一つ
2018年11月2日金曜日
イゴール・ミトライさん、発見
今日も淡々とした作業を進めた日であった
その中で、これまで別々にあったものが繋がるという発見があった
一つは、先日も触れたクラクフの中央広場で見た彫刻
もう一つは、アンジェの美術館前で何度も見ていた彫刻
アンジェでは気に入ったものだったが、クラクフでは気になるという感じだった
実は、この二つが同じ作者の作品だったのだ
作者は、ポーランド出身のイゴール・ミトライ(Igor Mitoraj, 1944-2014)さん
クラクフのものは、『エロス・ベンダート』(Eros Bendato)
アンジェのものは、『ペル・アドリアーノ』(Per Adriano)という作品であった
ただそれだけと言ってしまえばそれまでだが、わたしにとっては代えがたい発見になる
その時、なぜかわからないが悦びが込み上げてきた
2018年11月1日木曜日
海から始まった一日
月並みだが、早いもので今年も残り二か月になった
これからの時間で何ができるだろうか
見守りながら歩みたいものである
今朝、海へ足が向いた
人影もなく、静かな景色であった
広がる海を前に体を動かすのも悪くない
海辺を散策している時、今日の設計図が浮かんできた
いつも前に図があるとうまく行かないのだが、今日はどうだろうか
午前中に先週のサイファイ・カフェSHE札幌の纏めをすることができた
ハイデッガーの技術についての考えを中心にしたものである
こちらをご覧いただき、お気づきの点などお知らせいただければ幸いである
ところで、カフェで纏めをやっている時、お隣の女性3人組の会話が耳に入ってきた
こんな具合である
「この前なんか、うちの旦那、連絡もしないで呑みに行ったきり帰ってこない。電話してどこにいるのか訊いても答えないのでもう勝手にしなさいと言って携帯を切ると、5分もしないうちにこっそり帰ってきた。しかし、一言の謝りもないので頭(あったま)にきてそれから3日間一言も口をきいてやらなかった」と言って笑い飛ばしていた
それを聞いて、思わず心の中で「にんまり」
それが外に出ないようにと苦労した
現世に降りると、なかなか大変である
午後からは淡々とコサールさんの翻訳の見直しをやる
充分に摘み取った一日と言えるだろう
2018年10月31日水曜日
翻訳の秋?
秋が深まり、あるいは日本での時間が経ったためか、落ち着いてきたように感じている
やっとコサールさんの本の最初のゲラを見直す気分になってきた
1週間くらいで終わらせたいものだが、おそらくそうは問屋が卸さないだろう
今日、久しぶりにフランスの免疫学者の友人からメールが届いた
やり取りの中で、クリルスキーさんの本のことが出た
フランス人の彼も読んだらしいのだが、専門家でも理解するのに苦労したという
おそらく、一度読んだだけでは頭に入ってこないのだろう
理解するためには、著者の思考の跡を何度もなぞらなければならないのかもしれない
そういう本の翻訳をやったことに驚き、そして労っていただいた
2018年10月28日日曜日
第4回ベルクソン・カフェ 迫る
Tod und Mädchen / Mort et Jeune fille (1915)
Egon Schiele (1890-1918)
Egon Schiele (1890-1918)
フランス語を読み哲学する第4回ベルクソン・カフェが近づいてまいりました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
<2回シリーズ>
① 2018年11月9日(金)18:00~21:00
② 2018年11月月15日(木)18:00~21:00
<1回だけの参加でも問題ありません>
テクスト
Pierre Hadot« Apprendre à mourir »「死ぬことを学ぶ」
Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 48-60(Albin Michel, 2002)
<参加予定者には予めテクストをお送りいたします>
会場
恵比寿カルフールB会議室
参加を希望される方は、she.yakura@gmail.comまでご連絡ください
よろしくお願いいたします
2018年10月27日土曜日
第6回サイファイ・カフェSHE札幌、技術から現代を考える
午前中は雨と風でどうなるかと思ったが、午後から晴れてくれた
第6回になるSHE札幌を開催した
1名の方が都合が悪くなり欠席となったが、写真の4名の方が参加された
実はカメラを忘れたため、参加された長谷川氏のスマートフォンをお借りした
こういうことは稀ではなくなった
今回のテーマはハイデッガーの技術論を基に、テクネーの本質について考えた
何度も触れているが、日本語では見慣れない術語が出てきて苦労する
既にある言葉を使うのではなく、新しく造る傾向があるためだ
人を哲学から遠ざけることに貢献?している
ハイデッガーに関しては、個人的な縁がある
フランスに渡る前の2年間、フランス語を勉強するためにブログをやっていた
それを読んだフランスの哲学教師が長いコメントを書いてくれた
一つのポイントは、わたしはハイデッガーを愛するために生まれてきたというのだ
その意味がよく分からなかったが、今回彼が書いたものを読み、少しだけ見えてきた
と、思った
似たようなことを考えているように感じたからだ
以下、独断をもって書いてみたい
一つは、わたしが言っている「科学の形而上学化」についてである
科学の成果の本質は、科学では掴みえないので形而上学を導入しようという立場である
ハイデッガーは、技術の本質は技術的ではないと言っている
技術を中立的なものとして見ると、その本質には辿り着かない
本質が見えてこないと、技術との自由な関係も結べない
技術にどのように対処してよいのか分からないのだ
それから、彼が見ていた科学時代における思考の欠如である
勿論、人間は考えている
しかし、それは計算に基づく思考であり、科学的思考である
欠けているのは、存在そのものの意味に入る瞑想的な思考であるというのだ
これまでこの場で言ってきた瞑想の重要性に繋がる
この見方は意識の三層構造理論に当て嵌めるとさらに明確な像が浮かび上がる
つまり、現代人の思考は第二層止まりで、枠を超えた思考が行われる第三層には入らない
瞑想的思考が排除されているのである
この思考こそが世界を救うかもしれないのに、である
問題は、この思考は具体的な問題解決に貢献しないこと
そして、この思考に習熟するためには時間と訓練を要することである
そのため、残念ながら、その必要性が真に理解されることになっていない
ハイデッガーの技術に関する考えは、近いうちに専用サイトに纏める予定である
技術に関してここで言えることは、次のことだろうか
それは、技術の本質から齎されるものが我々の生活を覆いつくしていることである
目立たない形で、産業、経済、教育、政治、戦争、マスメディアなどに組込まれている
現代では、我々はすでに技術の本質の中に生きている
そこには主体性がないので、生かされていると言った方が正確だろう
しかし、その中にいる人にはそれが見えていないのだ
なぜ文系の役人が文系の学問を軽視するような方針を出すのか疑問であった
しかし、こういう背景を考えると腑に落ちる
おそらく、彼らの思考も技術の本質から齎されるものに侵されていたのである
そのため根源的な思考、瞑想的な思考ができなくなっているのである
2018年10月26日金曜日
終日ハイデッガーを読む
今日は朝からハイデッガーの日本語訳を読んでいた
言葉を読んですぐにイメージできない日本語が出てきて、それが重要になる
そのために言葉を造るのである
そして、それが日本では術語になるのだろう
そういう時はフランス語訳を読んだ方が分かりやすい
すでにある言葉を使っていることが多いからだろうか
日本語で哲学するのも大変である
カフェ前日ということもあり、これまでになく集中できたのではないだろうか
この集中を日常的に維持できれば素晴らしいのだろうが、そうはいかない
明日も準備は続ける予定である
2018年10月24日水曜日
黄色い満月、そしてクラクフ再訪
今週土曜のカフェSHEの準備をして店を出たところで、低く上がった大きな満月を見た
一瞬、得をしたような気分になる
残念ながら、その色をわたしのカメラは捉えることができない
おそらく、この時しか見ることができない色なのだろう
卵の黄身を少し赤くしたような、黄金色と言った方がよいような色をしていた
昔から月見をしてきた人の気持ちが分かるような、深い悦びを感じさせる景色であった
「旅と散策とヨーロッパ」は日本のテレビの一つのテーマであることを再確認
その町はクラクフ
ほぼ十年前、同じ町を歩いたことを思い出す
ポーランドの旅(2009年4月)
実際に見たところだけではなく、行けなかったところも出ていた
いつものように、頭の中が清風にそよいだ
2018年10月23日火曜日
篠田桃紅さん、再び
先日、図書館にあったパンフレットでタイトルを見かけた本を注文
今日届いた
『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』(世界文化社、2017)
篠田桃紅さんについては以前にも触れたことがある
久し振りの週末気分、そこで味わう100歳気分(2017.6.17)
薄い本なので、すぐに読み終えることができた
その中に、わたしの考えていること、感じていることと繋がるところがいくつかあった
例えば、
● 昔と今を繋げている
● 有名もへちまもない
● なにぶん旅のことで
● 一生もの
● 無用の時間を持つ
● 一切は変わる
それから、まねはできないが、これからの参考にしたいところもあった
それは、これまであまり関心がなかった物理的な生活空間をどう作るのかという問題
無粋故に難しいとは思うが、折に触れて頭を使ってみてはどうだろうか
今回の滞在では身の回りの具体的なものに注意が向くようになってきた
これからに向けての発見であったことを願いたい
2018年10月22日月曜日
トンボも日向ぼっこ
朝の陽ざしは暖かく、この世にあることの幸せを感じさせてくれる
扉を開けると、トンボが多いことに気付く
そして壁の方に目をやると、トンボも日向ぼっこである
全く動かない
同じように気持よいのだろうと感情移入
外に出てその様子を写真に収めた
暫くすると、お隣さんの?猫も姿を現した
こちらも全く動かず、寝転がってわたしの方を見ている
快晴の今朝、至福の時間が流れた
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