新しい郵便箱は宣伝のチラシで一杯になっていた
その中に、Tours & Moi という情報誌が入っていた
パラパラとやっていると、町が国際化を図っているという記事があった
その中に、「日仏自治体交流会議」という漢字が見える
第5回の会議がトゥールでこの10月5-6日に開催されるようである
これまで2年おきに日仏で開催している
第4回会議 平成26年10月 高松
第3回会議 平成24年8月 シャルトル
第2回会議 平成22年5月 金沢
第1回会議 平成20年10月 ナンシー
写真の説明では、京都の若い女性が毎年トゥールを訪れているらしい
目に見えないところで、いろいろな活動が行われているものである
今年の7月1日に亡くなった詩人のイヴ・ボヌフォワ(Yves Bonnefoy, 1923.6.24-2016.7.1)さん
最初のブログで取り上げたことがある
その縁でその後何冊か仕入れたことがあった
トゥール生まれとは知らなかった
と思って最初の記事を見ると、ちゃんと Tours 生まれと書いてある
もう10年も前のことになるので許されるだろうか
当時はこういう繋がりになるとは想像もできなかったのだから
イヴ・ボヌフォワ 「ヨーロッパ精神と俳句」 YVES BONNEFOY SUR LE HAIKU (2006-11-18)
その中からボヌフォワさんの言葉を聴き直してみたい
「ヨーロッパでは長い間、現実は単なる神の創造物であって、それ自体に神が宿るものではないと感じられてきたからです。ヨーロッパ人の精神は、風の音に耳を傾けたり、木の葉の落ちるのを眺めたりするよりも、神学的な、あるいは哲学的な思考をめぐらすことの方に、ずっと忙しかったのです。だからわれわれの詩は、そこである思考をきちんと展開するために、十分な長さを必要とします。比較的短いように見える詩、たとえばソネット (十四行の定型詩) の場合でも、その事情は変わりません。」
「キリスト教的な世界観の一種の衰退とともに、神秘的な生命に満ちた自然という観念が、詩人たちを促して、自然から得たさまざまな印象を重んじさせるようになりました。そして詩の論説的な面よりも、本来の詩的経験そのものがきわ立つことになった結果、短詩型の価値や可能性がよりよく理解されたばかりでなく、これこそが求めるものの核心かもしれないというわけで、意識的に短詩型が用いられることにさえなったのです。」
ただヨーロッパ人がキリスト教の伝統を忘れ去ることはないだろうから、二つの伝統の板挟みになりながら進むだろうという。
「フランスの詩人が、仏教に強く染まった日本の詩から学ぶ教訓 ― 個性を没し自我を去れという教訓が、どれほど当然かつ明々白々であろうとも、一個の人格としての彼の自意識は、けっして弱まることがないでしょう。個人そのものが現実であり絶対的な価値を持つというキリスト教の教えを、西洋人が忘れ去るのは容易なことではありません。フランスにおける詩的感性は、いつまでも詩人の自己省察に縛りをかけられたままであり、したがって、その偉大な詩はいつまでも、ある両面性の板ばさみになり続けることでしょう。その両面性の一方には、個人の運命への強い関心があり、他方には、そうした運命がもはや意味をなさないような自然界・宇宙界の深みに没入したいという欲求があるのです。 」
(ボヌフォワさんの言葉は川本皓嗣訳による)
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