Charles Péguy (1873-1914)
久し振りに買ってきた文学雑誌を手に取る
その中のシャルル・ペギーについての記事を読む
スートゥナンスの報告を読んで以来、身近に感じるようになっている
第一次大戦中にドイツ軍により殺されたフランスの詩人、ジャーナリスト、思想家である
彼の言葉に「カルトになった科学がその地位を乱用して無茶なことをやっている」というのがある
一つの宗教的力を持った科学ということだろう
今ではよく言われるが、20世紀初頭の観察であった
「近代性は時代が誇っていたものだが、ペギーはそこに毒を見ていた」
そう言ったのは、ブルーノ・ラトゥールである
近代化はプラグマティックになることを求めるものである
しかし、ペギーにとっては目が眩み、目が見えなくなる無分別でしかなかった
近代性は金を唯一の主人とする狂気の哲学を適用したと見ていたのである
そこにおける進歩はゆっくりとした混乱であり、破局に向かう道でしかなかった
現代をペギーの目で見直すと、当然の帰結が表れているように見える
「もの・こと」の判断が唯一の物質的基準によっているため、精神性は蔑ろにされている
その基準は余りにも当たり前になっているので、悲惨な現状にも気付かなくなっている
その状況の中でも考えて行くために、彼は体系とか概念の確立を放棄することにする
そして、宗教、政治、経済という異なる論理を交える創造的な方法を編み出すことになる
それはそれぞれを混ぜ合わせるのではなく、配置を変えることであった
具体的には、こういうことだった
労働による疎外と闘う時、経済的な側面を考慮するのではなく、苦痛の拒否を至上のものとする
社会主義を訴える時には、革命という血と対立が埋め込まれた想像の世界に従うのではない
そうではなく、文化によるすべての人の「社会化」を行うことを意味していた
彼の省察の方法を纏めるとすれば、論理の進め方を絶えず転換すること
depaysement、すなわち新しいところ、さらに言えば居心地の悪いところに身を置くことであった
そうすることによって可能になる、休みない頭の使い方の更新であった
0 件のコメント:
コメントを投稿