2017年7月31日月曜日

朝の散策、クロワッサンと大樹の緑



今年ももう7か月が経とうとしている
いつもの感想だが、色々なことは詰まっていたが、全体を見るとあっという間であった

これまで街中に出るのにバスを使っていた
これはこれで快適だったが、気分転換を兼ねて歩いてみることにした
地図で見ると中心街や旧市街まで2キロほどなので手頃な散策になると思ったからだ
実際に歩いてみると、25分ほどであった
途中の景色はやや退屈だが、まずますの歩きとなった

早速路上のカフェに落ち着き、そこを覆っているような大樹の緑を眺めている時、至福が訪れる
恰幅の良い親父の快活な対応や開けている様子も気分を良くさせるのだろう
日本ではなかなか味わえない時空間だ

朝の散策は毎日続けたいものだが、これまでを考えると想像以上に難しい道だろう
様子を見ることにしたい


今朝はそのカフェからのアップとなった








2017年7月29日土曜日

サイファイ研究所ISHEからのお知らせ



今年後期の活動が以下のように決まりました
詳細はサイト、ポスターをご覧いただければ幸いです
これらのテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


● 第1回 Sci-Phi Café à Paris (パリカフェ)
<科学と哲学と生き方を語ります>
2017年9月2日(土) 16:00-18:00
Salle de Réunion (Rouge), Le Bloc, Espace de Coworking. 10 bis, rue du Sommerard, 75005 Paris. 
テーマ: 科学と哲学の関係を考える

● 第4回サイファイ・カフェSHE札幌
<科学を哲学と歴史から振り返ります>
2017年10月6日(金) 18:3020:30  
札幌カフェ 5F スペース
テーマ: あるべき内的生活を考える  

● 第2回ベルクソン・カフェ(2回シリーズ)  
<フランス語のテクストを読み、哲学します> 

(1)2017年10月14日(土) 16:00-19:00  
(2)2017年10月21日(土) 16:00-19:00 
恵比寿カルフール B会議室
テクスト: Pierre Hadot, « Apprendre à vivre » 「生きることを学ぶ」  Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)  p. 19-38
 参加予定者にはテクストを事前に配布いたします
1回だけの参加でも問題ありません

● 第6回カフェフィロPAWL
<生き方としての哲学を振り返ります> 
2017年10月20日(金) 18h30-20h30
ルノアール・飯田橋西口店 2号室
テーマ: プラトンの 『パイドン』 を読む

● 第12回サイファイ・カフェSHE
科学を哲学と歴史から振り返ります> 
2017年10月27日(金) 18h30-20h30
ルノアール・飯田橋西口店 2号室
テーマ: ミニマル・コグニションを考える
 
● 第2回サイファイ・フォーラムFPSS  
<科学を哲学し、科学を文化にします> 
2017年10月28日(土) 13h40-16h25
日仏会館 509会議室
FPSS賛同者4名の話題提供を基に議論します





2017年7月28日金曜日

清水幾太郎の 『三つの生命』 をパラパラと



本日も用事があり、パリに出ている
メトロにはなぜかトゥールのポスターが出ていた
目に触れた限りでは4種類あった
上の写真は以前にも取り上げたことがある今年開館したばかりの美術館 CCCOD である
Centre de Création Contemporaine Olivier Debré
そのイメージがよく捉えられて、感じよく仕上がっている
当然なのだろうが、トゥールよりは視覚を刺激するものが多い

今朝、出掛けに目に入った清水幾太郎の『三つの生命』(鱒書房、昭和23年)を手に取る
副題が「プラグマティズムの立場から」となっているエッセイ集だ
清水と生命という組み合わせが意外だったからだろうか
車内で少しだけ目を通してきた

冒頭、デューイの次の言葉が引用されている
「出來事の組織の中で、吾々の努力によつて變じ得る小さな部分は、世界の他の部分と連續してゐる。吾々の庭の境界は吾々の隣人の世界と連なり、更に吾々の隣人の隣人の世界と連なる。吾々の為し得る小さな努力は、やがてこれを受容し且つ支持する無限の出來事と結びつくものである。この無限の結合を含む意識が理想である」
これは古代のストア哲学の教えそのものである
同様の主張は今日さらによく目にするようになっている

それから、ご本人の専門でもあったオーギュスト・コントについてのお話もよく出てくる
清水もコント同様、神学的段階や形而上学的段階の問題点を指摘している
この見方は実証的段階が確立する前には通らなければならないものだったのかもしれない
特に、フランス革命や第二次世界大戦の後では尚更強く感じたのではないだろうか


帰りのIntercitésは満員であった
こんなことは珍しい
多くの乗客はシャンボールで降りていた
観光シーズンたけなわといったところだろうか







2017年7月26日水曜日

神戸からのお客様とのディネ

     村田陽ニ、小谷武徳、的崎尚の各先生


昨日は学会でパリに来られた神戸大学の諸先生とのディネがあった
その前夜に連絡が入ったので、かなり急なお話であった
幸い別の用事でパリに出ることになっていたのでお会いすることができた
こういう偶然もあるのだ
あるカナダ人研究者の場合には、その日の数時間前に連絡が入り、何度か出掛けたことがある
そのことを思えば、ずっとましだろう

的崎先生とはほぼ1年ぶりくらいになるのではないだろうか
昔から調子が安定されているのであまり変化を感じないが、今回も同様であった
予定より遅れたのは、研究室の若手の発表で議論が盛り上がったためとのこと
何よりであった

アメリカの学会に比べ、ヨーロッパの学会は時間の流れがゆったりしているという感想であった
わたしも同じような感想を持ったことを思い出す
実際に生活していると、それは日常生活の反映でしかないことが分かる
そんなに急いで生きてどうするの?という考えを感じる
あるいは、形式ではなく中身でしょう、とも言えるだろうか
アメリカでは仕事をしていたせいもあるのか、いつも何かに追われていたような感じがあった

いつものように、内的世界を充実することの重要性や瞑想の効果などについて話す
過去10年程の間に内から生まれ、持論となってきたことを展開したとも言える
しかし、わたしがそうであったように、現役の人にはなかなかピンと来ない可能性がある
仕事に集中するということは、そういうことなのかもしれない

もう学会の中でも年長の方になってきたとのことで、研究者の代替わりが進んでいる
ということで、活躍中の研究者の名前は大部分聞いたことがない状態になっている
人の世の常だろう
そんな中、将来の話も少しだけ出ていた
サバティカルのような自由な環境で研究を続けることができれば、というお考えのようであった
まだ先のことなので、煮詰まるまでには時間がかかりそうな印象ではあったが、、

今日は午前中のセッションの後はベルサイユ訪問とのことで、中休みという感じだろうか
木曜で会は終わり、金曜には帰国されるとのこと
充実した会になることを願いたい





2017年7月25日火曜日

パリカフェの会場を下見する




本日、パリに出たついでに9月のパリカフェの会場を下見した
上の写真が入り口になっている




住所は10 bis, rue du Sommerard が正しく、10 rue du Sommerardの幼稚園と混同しやすい
上の地図を参照のこと





チャイムを押して中に入ると受付があり、その奥はこのような休憩スペースとなっている
早く着いた時などに利用できそうだ


 

右手奥には食事スペースがあり、パンや飲み物が置いてあった
係りの人によると、いつも置いてあるとのこと




会議室は2階にあり、奥にエレベーターもあるが、階段で上がった
簡素だがおしゃれな作りで、右手にはコーヒーマシンと小さな冷蔵庫があった
会議室前は個人のオープン・オフィススペースとなっていた




1階左奥からは小さな庭に出ることもできる
オープンして2か月余りとのことで新しい
係りの人もaccueillantで、想像していた以上の会場であった
あとは、参加される方がいるのかいないのかだけが問題となる 








2017年7月24日月曜日

パリカフェの案内、日本パスツール財団フェースブックに掲載される



9月2日に新たにパリカフェ(Sci-Phi Café à Paris)を開催する予定であることは以前に触れた

情報拡散を模索していたところ、日本パスツール財団フェースブックへの掲載が許可された

案内はこちら

寛大なご判断をいただいた財団事務局には改めて感謝したい

少しでも多くの方の目に触れることを願うばかりである







2017年7月23日日曜日

5-6年前と共に、静かな週末



この町の交通機関は予想していた以上に感じがよいことについては以前に触れた
頻度が丁度良く、比較的正確である
バスは中ほどに写真のようなスーペースが取ってある
車いすの人やベビーカートが母親がここに入る
日本ではバスに乗ることがないので分からないが、どのようなデザインになっているのだろうか

昨日今日と涼しい日が続いている
昨年を考えると、これで夏が終りということはないのだろうが、、
今日は予定を変更して、ぼんやりと過ごす
5-6年前のノートに目を通す
どこかに繋がる種が眠っているのでは、と思いながら読んでいた
静かな週末になりそうである







2017年7月21日金曜日

一日を二度始めてみる



今日はもう秋風かと思うほど涼しく過ごしやすかった
旧市街に出掛ける
いつものカフェで結構集中できたのではないだろうか

日本での時差ぼけのことを思い出し、帰ってから軽く寝てみる
やはり、起きた時が非常に新鮮で、再びの集中が可能になる
一日を二度使うことが出来そうである

それはそうと、今回の日本での時差ぼけはかなり続いた
初めてではないだろうか
ただ、こちらに戻ってからはすぐに適応できている
この体、フランス時間に設定されてしまったようである

夕方、窓を開けて日が暮れるまでの時間を味わおうとしたところ、例の夫婦喧嘩が始まった
やる時には少なくともバルコンに出ないで部屋の中でやってほしいものである
毎日?あれではさぞお疲れではないかと思うが、ご本人たちの心のうちは分からない
案外、軽い気分転換なのかもしれない
ただ、それを聞かされる方はたまったものではない






2017年7月19日水曜日

第2回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内



第2回サイファイ・フォーラムFPSSの概要が決まりましたのでお知らせいたします

日時: 2107年10月28日(土)、13:40~16:25
会場: 日仏会館 509会議室

今回はFPSS賛同者4名の方に話題を提供していただき、それを基に議論する予定です
プログラムは以下の通りです

(1)13:40-13:45 矢倉英隆: イントロダクション 
(2)13:45-14:20 牟田由喜子: 日本におけるサイエンス コミュニケーションの歴史と現状
(3)14:20-14:55 白石浩隆: 50歳からの「セミ(プチ) 矢倉氏生活」のススメ
(4)14:55-15:30 林 洋輔: 「文理融合」の実質と哲学の位置―「体育学」の事例から考える―
(5)15:30-16:05 佐賀徹雄: 生物多様性農業
(6)16:05-16:25 総合討論


詳細はサイトポスターをご覧いただければ幸いです

本フォーラムの活動にご理解のほど、よろしくお願いいたします






2017年7月18日火曜日

ゆでだこ状態を如何せん



昨日も午後からは暑いと思ったが、今日はそれ以上だ
有に30度は越えているのではないか
外に出ると汗が噴き出す

カフェに立ち寄ったが、その気分にはならず
この季節、午前中しかその時はないのかもしれない
今夜はどんな心境になっているだろうか

今日はそのカフェからのアップとなった





「まず」 が大事



そこにあるものに火を付けよ!とのメッセージを得た昨日

今日は朝から「まず」動き出すことにした

この「まず」が何かをやる時には重要だ

沈む生活が長いとこれもなかなか難しい

しかし、今日は週の初め、テクノのカフェに一番乗りになった








2017年7月17日月曜日

JAZZ の歴史を観て、エネルギーを注がれる



革命記念日の週末

穏やかな空を見ているうちに何かをやろうという気が失せ、JAZZの歴史を観る

暫くすると、こころにエネルギーが注がれるような感覚が襲う

そこにあるものを燃やせ!と活を入れられているような気分になる
















2017年7月16日日曜日

久し振りのシャルル・ペギー

   Charles Péguy (1873-1914)


久し振りに買ってきた文学雑誌を手に取る
その中のシャルル・ペギーについての記事を読む
スートゥナンスの報告を読んで以来、身近に感じるようになっている
第一次大戦中にドイツ軍により殺されたフランスの詩人、ジャーナリスト、思想家である

彼の言葉に「カルトになった科学がその地位を乱用して無茶なことをやっている」というのがある
一つの宗教的力を持った科学ということだろう
今ではよく言われるが、20世紀初頭の観察であった

「近代性は時代が誇っていたものだが、ペギーはそこに毒を見ていた」
そう言ったのは、ブルーノ・ラトゥールである
近代化はプラグマティックになることを求めるものである
しかし、ペギーにとっては目が眩み、目が見えなくなる無分別でしかなかった
近代性は金を唯一の主人とする狂気の哲学を適用したと見ていたのである
そこにおける進歩はゆっくりとした混乱であり、破局に向かう道でしかなかった

現代をペギーの目で見直すと、当然の帰結が表れているように見える
「もの・こと」の判断が唯一の物質的基準によっているため、精神性は蔑ろにされている
その基準は余りにも当たり前になっているので、悲惨な現状にも気付かなくなっている

その状況の中でも考えて行くために、彼は体系とか概念の確立を放棄することにする
そして、宗教、政治、経済という異なる論理を交える創造的な方法を編み出すことになる
それはそれぞれを混ぜ合わせるのではなく、配置を変えることであった

具体的には、こういうことだった
労働による疎外と闘う時、経済的な側面を考慮するのではなく、苦痛の拒否を至上のものとする
社会主義を訴える時には、革命という血と対立が埋め込まれた想像の世界に従うのではない
そうではなく、文化によるすべての人の「社会化」を行うことを意味していた

彼の省察の方法を纏めるとすれば、論理の進め方を絶えず転換すること
depaysement、すなわち新しいところ、さらに言えば居心地の悪いところに身を置くことであった
そうすることによって可能になる、休みない頭の使い方の更新であった






2017年7月14日金曜日

第4回サイファイ・カフェSHE札幌のご案内




科学を哲学と歴史から振り返る試みを札幌で開催いたします

4回目になる今回のテーマは、「あるべき内的生活を考える」 としました

日時: 2017年10月6日(金) 18:30~20:30   

会場: 札幌カフェ 5Fスペース

詳細は、サイトおよびポスターご覧いただければ幸いです

このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






2017年7月13日木曜日

サイファイカフェ・パリ開店のお知らせ




この9月上旬、パリにおいて、科学と哲学と生き方を語るカフェを開くことにいたしました
名前はこれまでのつながりで Sci-Phi Café à Paris (サイファイカフェ・パリ)となります
簡単に「パリカフェ」としてもよいかもしれません
どれだけの方が興味を示すのか全く見えない中での開店になりますが、よろしくお願いいたします

立ち上げたサイトはこちらになります
詳細は決まり次第、サイトに掲載する予定です
このような試みに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


vendredi 14 juillet 2017

昨日、会場の予約も終え、以下のように決定いたしました

テーマ: 科学と哲学の関係を考える
日時: 9月2日(土)16h~18h
会場: Salle de Réunion (Rouge), 2ème étage
Le Bloc, Espace de Coworking
10 bis, rue du Sommerard, 75005 Paris
Métro : Maubert Mutualité (ligne 10)

詳細はポスターをご覧いただければ幸いです
よろしくお願いいたします

ポスター







第1回ベルクソン・カフェ、フランク・ミシュラン・ブログで紹介される



7月1日に第1回ベルクソン・カフェが東京で開かれた
その様子が会に参加されたフランク・ミシュラン様のブログに今回紹介された
過分なご紹介をいただき、恐縮している
これからいろいろな繋がりが生まれることを願いたい
先日、第2回ベルクソン・カフェの案内を出した
このような試みに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております





2017年7月11日火曜日

8年振りのウィリー・ロニス



この日曜日、近くを散策時、ウィリー・ロニス展がトゥール城のJeu de Paumeで開催中のことを知る
実に8年振りの再会ということになる

Willy Ronis (1910 - 2009)

ウィリー・ロニスという写真家、そして何必館・梶川芳友(2009-01-24)


今朝、HPの案内では11hからになっていたので出掛けたが、14hからとのことで近くで休むことに
この界隈は何度か通ったことはあるが、どこかに落ち着いたことはなかった
偶然感じの良さそうなカフェがあったので入り、2時間ほど休んでから会場に向かった

割引で2ユーロ、お城なのでなかなか良い
お客さんは入っていたが十分な空間を味わう
以前にかなり見ているので、目新しいものはなかったようだ

流れていたビデオも以前に観たものだったが、次のエピソードで記憶を新たにした
一つはLIFEと仕事をした時のこと
キャプションを自ら付けることができないことに苛立ちを覚えたという
それ以来、LIFEとの仕事は止めたようだ
もう一つはイギリスの新聞との仕事でのこと
それはさらに酷いもので、写真をある意図に合わせてフレーミングしたというのだ
新聞も商売とは言え、それをやってはお終いだろう


会場に向かう途中、ものすごい音を出している乗り物に遭遇
皆さん、物珍しそうに話しかけていた
ユニークな人が集まるカルティエのようである











2017年7月9日日曜日

暑さは何かを弾けさせる?




暑い日が続くと、人間も変わるのだろうか?
昨年を思い返せば、バスの中で男女の大喧嘩があり、女性が長い刃物を出すという一件があった
その場は、男の連れが間に入り、事なきを得た

今年は大きなことはないが、今日はバスの扉が開かないと言って大声を上げる人が何人もいた
普段では聞かないレベルの音量であった
そして、帰りのバス停では男が独りごとを言いながら寄ってきて、こちらに話しかけるような素振り
何を言っているのか分からないが、ラップのように次から次に言葉が出てくる
その中に、それぞれの神を持っても良いのだ、というのが聞えた
こちらの顔を見て、仏陀だって悪くないとか何とか言っている
赤信号で止まったバイクの二人組にも大声で何かを訴えていた

暑さには人間の奥に溜まっている何かを爆発させる力があるのかもしれない
そんなことを思った週末の夕下がりである






2017年7月7日金曜日

第2回ベルクソン・カフェのご案内



第2回ベルクソン・カフェ

<2回シリーズ>

① 2017年10月14日(土) 16:00~19:00
② 2017年10月21日(土) 16:00~19:00

1回だけの参加でも問題ありません

会場: 新装予定の恵比寿カルフールB会議室

テクスト: Pierre Hadot « Apprendre à vivre »  「生きることを学ぶ」 
Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 19-38 (Albin Michel, 2002)

参加予定者には原文をあらかじめお送りします
議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は参加の必須条件ではありません
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

詳細はサイトをご参照いただければ幸いです

ご理解の程、よろしくお願いいたします







2017年7月6日木曜日

暑い日は籠るに如くはなし




昨日、アナトール・フランス広場の辺りを歩くと、再開発がさらに進んでいた
サン・ジュリアン教会が真っ白に輝いていたのが印象的だった

予報を見ると今日から毎日が30度の日が続きそうである
こちらは湿気はないが、外に出ると汗が噴き出すことに変わりはない
ただ、木陰や室内に入ると暑さを凌げるのは救いである
ということで、今日は静かに籠ることにした






2017年7月4日火曜日

午後から街へ、フランスに戻ってきた



この不在の間に溜まっていた事務処理をするために街に出た
のんびりした町だが、一段とのんびり度が増している
もう7月、バカンス気分が漂っている
背広を着て歩いているのは私くらいではないか 
同じこの地球に生きているのに、どうしてこうも人生の捉え方が違うのか
こちらの空気を味わえることは、精神衛生には良さそうだ

一段落して馴染みのカフェに落ち着いた
いつもは珈琲なのだが、この気分に押され、昼間から濁ったヘーフェ・ヴァイツェンを飲みたくなる
しかし、その言葉がすぐに出て来ない
色々説明したが話は通ぜず、兎に角注文
だが、違っていたので、持ってきた立派なカイザー髭の若い店員に、どうも違ったようだ、と言う
それからネットで調べて教えると、それならあるので飲んでくれと言って、持ってきてくれた
何のことはない、白ビール(bière blanche)でよかったのだ

こういう対応が昼間の素面の状態で起こるのは、やはり嬉しくなる
コミュニケーションが成立していると言うか、人間の周りにスペースがあるとでも言うべき状態だ
これを日本で経験することは極めて稀である
日本では自分がコントロールされているものに従うことが当たり前と考えているところがある
アプリオリにそう考えていて、それ自体を疑うことがないように見える
自分の欲求と葛藤することなく、行動しているように見えるのだ
他人の心の中は分からないが、その片鱗は外に現れる、という前提での観察になるのだが、、
それは哲学の欠如と言ってもよいものだろう

いずれにせよ、このような今日は時差ぼけ解消日となりそうである








トゥールに無事到着



昨夜10時、無事にアパルトマンに辿り着いた
今回は資料を持って行ったので大きめのスーツケースにした
最初にこちらに来る時に使ったもので、それ以来使っていなかった
しかし、10年のブランクを感じさせない柔軟な仕事をやってくれた
ただ、帰りは荷物が二つになり、移動、特にこちらの電車の乗り換えが大変であった
しかし、落ち着いて振り返ってみると何事もなく進んだように見える

実は、移動ことを思い浮かべると嫌になっていたのだが、それを止めるとすっきりした
これも「現在への集中」の効果だろう
いつもその時に打ち込めばよいのである
過去や未来を思い悩むのは一文の得にもならない
今回の日本でよく出てきた古代哲学の一派の考えで、現代でも有効である
それと夜10時が明るいことを忘れていたので、パリに着いた時、気分が晴れるのを感じていた

この町もこれまでと何も変わりない
幸いアパルトマンも何事もなかったようにそこにあった
こちらに着いてすぐに感じたのは、やはり時間の流れが澄んでいる、あるいは透明なことである
その流れの中にいる時、余分なものが削ぎ落され、エッセンスだけになるという感覚だろうか

一夜明け、晴れ上がった空をいつものように眺めている






2017年7月3日月曜日

奈良散策 (5) 新薬師寺




その日最後の訪問先は新薬師寺だった
入江泰吉記念美術館とは目と鼻の先である
陽の光が強くなり、湿気をさらに感じるようになる中での訪問となった

お寺のホームページがよくできていて、写真も美しい
創建は天平19年(747年)とのことだが、その後いろいろな災禍をくぐってきたようだ
このサイトにあるように、素晴らしい十二神将が本尊の薬師如来を護っている
暫しの間、対面してから外に出た

帰りがけ、十二神将の色の復元を試みたビデオを観る
当初の色が余りにも鮮やかで、どぎついと言ってもよいようなものになっていた
それは予想された驚きと言ってもよいものだろう
以前、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』やミケランジェロの『アダムの創造』の修復を見ていたからだ
その時は元の色の鮮やかさに本当に驚いた
そして、くすんだ今の色の方がずっと良いのに、という感想が浮かんできたことを思い出す
それ以来、日本でも同様の修復を見ているが、本当には驚かなくなっている

今回は連想で古典というものについて、次のような疑問が巡っていた
歴史の波を掻い潜り、諸々の解釈が染みついたものとして古典を見てはいないか?
古典そのものに体当たりして、何かを感得するというやり方を採っていないのではないか?
もしそうだとすれば、自分の感性を働かせない安直なやり方になっていることを意味している
そうではなく、それが出た当時に立ち戻り、味わわなければならないのではないか?
よく言われる基本を改めて検討する時間となった
しかし、像の再現がそうであったように、それは並大抵のことではなし得ないこともよく見えてくる
その時代の社会的背景や感性について知らなければならないからだ




昨日は帰国前*の最後の一日
午後から緑滴るカフェに出て、今回の滞在を振り返ってみた
今回も来る前には想像もできなかったような色々なものを齎してくれた
それが分かるのは、このようなたっぷりとした瞑想の時間の中でのことである
瞑想の効果は絶大である

先日のベルクソン・カフェで編集者の岩永氏からmindfulnessという概念を教えていただいた
最近注目されているという
その言葉を聞き、古代から急に現代に引き戻されるような感覚に陥った
わたしが言っている瞑想とはどういうものなのかを知る上でも、比較検討の余地がありそうである


* mardi 4 juillet 2017

トゥールに戻り、何気なく読み直していると、「帰国前」となっていることに気付く
ひと月余りの疲れが出ていたのではないだろうか
今まで目には入ったいたのだが、全く気付かなかった
最近ではよくあることである
これでは次回から「来日」になりそうである
「帰国」を「フランスに戻る」と改めたい





2017年7月2日日曜日

奈良散策 (4) 入江泰吉記念 奈良市写真美術館



奈良散策の続きである
志賀直哉旧居からほんの少しだけ歩くと入江泰吉写真美術館があった
小雨の中を向かったが、出る時はこの通り太陽の光が出ていた
前日、奈良市内で本橋誠一氏の展覧会 「在り処(ありか)」 のポスターが目に入っていた 
同時に開催されている入江泰吉の「古色大和路」 も一緒に見ることにした




本橋氏はいろいろな人間を撮っていた
ベラルーシの人、日本の炭鉱の人、増毛の漁師、サーカスの人、女子プロレス、小人プロレス
さらに、昭和の上野駅、屠殺場の人などなど
人間は皆生まれ落ちると、兎に角生きなければならない
そこに如何なる苦しみがあろうとも、それを紛らわして生きなければならない
そんな姿が見えてくると、人間は何のために生まれてくるのか?という問いが湧いてくる
根源的な問いである
しかし、そんな問いに向き合う前にこの生が終わってしまわないとも限らない

大和路の方はほとんど人間が出てこない
悠久の自然を捉えている
ブティックには交流のあった文士の言葉が入江の写真に添えられているものがあった
その中に亀井勝一郎の名前を見つけ、何とも懐かしい気分になる
この時まで記憶の表面から消えていた名前であった
最初の学生時代に読んだことがある『大和古寺風物誌』から引用されている
彼は昭和3年に治安維持法違反容疑で逮捕され、昭和5年に転向して釈放されている
当時はそんなことも知らずに読んでいた





入江の写真を紹介したビデオ5編ほどを見てから館内のカフェ Fleur で疲れを癒す
ビデオを観ている時、それまでぼんやりしていた考えが一つの塊になったのを感じた
しばらく休んでから外に出ると、雨上がりのこんな名残が





そして、この日最後の目的地、新薬師寺に向かった






第1回ベルクソン・カフェの2日目、盛況のうちに終わる



今日の夕方、今回最後の活動となるベルクソン・カフェの2日目を開催した
以前にも触れているが、当初参加者を数名と予想していた
しかし、今日は欠席された方が2名おられたが、11名の方々にお集まりいただいた
未熟なマスターのお店にこれほどの方が来店されるとはまさに想定外で、大きな驚きであった
その中には、フランス人の歴史家フランク・ミシュランさんご夫妻もおられ、恐縮至極であった
また、「ベルクソン」の検索で辿り着かれた方、大阪や信州から参加された方もおられた
お休みの日の夕刻に参加された皆様に改めて感謝したい

終了後、どうしてフランス語のテクストを読むという会にこれだけの方が集まったのか、考えている
初めての試みなので物珍しさが手伝ったのだろうか
あるいは、潜在的にこのような試みに興味を持っている方がおられるということなのか
これから様子を見る必要はあるが、考え直す材料を与えられたように感じている


さて、今日も1週間前の1日目に続き、アドーの「生き方としての哲学」の後半を読んだ
最初に前半の簡単な纏めをやってから始めた

ここでは、中世から現代において哲学がどのように変容していったのかが分析されていた
古代の終わり頃から修道院運動の中で、生き方としての哲学の部分がキリスト教に組み込まれる
中世ではそれがさらに進行し、哲学は宗教の下僕になって行く
哲学は自律性や最高の科学としての立場を失い、宗教が求める概念を提供するようになる
教養学部は神学部の準備段階にしか過ぎなくなり、哲学も純理論的、抽象的になる
神学を科学に置き換えれば、この状況は現在と重なるのではないだろうか
あるいは、さらに酷い状況なのかもしれない
教養課程も必要ないという認識が、どこから出てくるのか、罷り通っているように見えるからである

教会が作った大学では、専門家を育てる専門家に向けた教育が18世紀まで行われる
教育が一般の人向けではなくなったのである
ただ、大学の外では、デカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツなどの独創的な人が出た
18世紀終わりから、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなど哲学と大学が強く結び付くようになる
ごく稀な例として、大学を出たショーペンハウアーやニーチェなどもいるにはいるが、、、
哲学と大学との関連は、ベルクソン、フッサール、ハイデッガーなどの現代でも変わりない

近代の大学の哲学は、最早生き方としての哲学ではなくなった
寧ろ、国家の教育機関で哲学が教えられるようになり、哲学の自律にも問題が出てくる
ショーペンハウアーは、その状態を次のように皮肉っている
「教育の目的はポジションを与えてくれた大臣の心情を学生に教えることである」
まさに、御用学者が生まれるのは当然の状況になったということだろうか

ただ、古代哲学の実存的な側面が完全に消えたわけではなかった
『省察』(Méditations métaphysiques)を書いたデカルトや『エチカ』(L'Éthique)のスピノザがいた
デカルトは瞑想(省察)を実行するように推奨している
わたし自身もこの助言には賛成である
瞑想にはすべてを変える力があると感じているからである

哲学の定義は自由であるが、こと古代に関する限り、哲学とは「智慧の鍛錬」であった
そこには、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、ストア派、懐疑派がいる
そのやり方には違いはあるが、その複数性こそ貴重なのである
ヤスパースが言っているように、一つを取って、他のものを捨てるというのではない
われわれの内的生活には、エピクロスもストア派も分かち難く存在しているのである

古代においては、一瞬一瞬に集中し、そこに無限の価値があることを自覚することが勧められた
「智慧の鍛錬」は宇宙的次元を含んでいるからである
ただ、古代の宇宙的意識は所謂科学知に基づくものではなく、生きた経験の中にあった

最後に、古代の哲学は逃避や自己に閉じ籠る行為であるとの誤解があると指摘している
実際には、常に集団、共同体を作って行われていた
そして、社会に影響を及ぼすことを放棄したわけではなかった
寧ろ、共同体に奉仕する義務を重要だと考えていた
つまり、哲学的生活とは共同体へのアンガジュマンを含むものなのである
そのためには情念ではなく理性のレベルに留まる必要があり、これが最も難しいことである
内的平静と激しい情念との均衡を如何に取るのかという問題である
それはスピノザが『エチカ』の最後で指摘したことでもある

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このような内容のエッセイだったが、初回よりは質問が出ていたように感じた
ミシュランさんの発言もあり、日本人だけとは違う世界になっていたのではないだろうか
今回はお一人だけが読みに参加されたが、次回はさらに多くの方が参加されることを願いたい
そして、今回のテクストの試訳を提供していただいた福井聡嗣様には改めて謝意を表したい

次回であるが、10月にやはり2回シリーズで開催したい
2時間と言えどもあっという間なので、次回は3時間を考えている
それから読むべき部分を選択してもよいかもしれない
いずれにせよ、次回の開催までにデカルトさんの助言に従い、じっくりと瞑想してみたい

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


会のまとめ