2018年2月14日水曜日

哲学固有のものとは



昨日は朝の内曇っていたが、お昼前には雪となった
最初細かく、後に大きな雪の乱舞となった
そして最後は霙になり、夕方にはそれも上がった
ごみ収集車はまだ来ていないようだ

昨日のローティ氏の話で、もう一つ思い出したことを書き留めておきたい
それは哲学に関することである
彼は哲学は文学だとしていた
哲学に特有のものはなく、ただ、西欧文化(の伝統)について語ることだと言っていた
その時に読むのが哲学書であり、文学者は文学を読むという違いだけだという
極々当たり前のことであるかのように、そう言っていた
英語では、matter-of-factlyとでも言うのだろうか
これには少々がかりしたが、やっぱりかという感じであった
自分が辿り着いた認識もそこにあったからである

それはこういうことである
わたしが哲学に入った時、哲学に固有の思考法があれば学びたいと思っていた
しかし、マスターの2年間でそういうものは見えてこなかった
教師自身も「哲学に固有の」ということを意識しているようには見えなかったからだろう
その結果、哲学に固有の思考法はなく科学の頭でも対応できると結論した
哲学が哲学たり得ているのは、哲学の伝統の上に立って考えているからということになる
それは余り面白くない結論ではあった
とすれば、どういうことになるのか
哲学の方法論を探るには、自らが人類の遺産に当たらなければならないことになる
彼らがどのように考えていたのかを地道に学ばなければならないと悟ったのである





0 件のコメント:

コメントを投稿