2018年5月30日水曜日
翻訳が手を離れる
今週で翻訳の最終確認を終え、わたしの手を離れた
何かをやり終えたという感覚は全くない
今は生体防御について考える多くの方の一助となることを願うばかりである
ご批判もいただければ幸いである
今日は日本の歌を流れるままに聴いていた
記憶を刺激するものが意外に多いのに驚きながら
それぞれの時代に実に多くの歌を聴いていたことが分かる
今夜聞こえてきた30年前の懐かしい歌声を一つだけ
若き日の一時期、よく聴いた歌手である
2018年5月26日土曜日
不染鉄の画集、届く
『没後40年 幻の画家 不染鉄』より
昨年秋に開催された不染鉄(1891-1976)の回顧展の画集が奈良県立美術館から届いた
早速、気になった海の絵を探してみた
ところが見つからない
・・と思ったが、おそらく絵葉書なのだろう、後ろの方にまとめられていた
『海底閑居之図』(1968)
不染77歳なので、晩年の作品
彼が辿り着いた境地を表していると言ってもよいのだろうか
添えられている文字が小さいので、読むのに一苦労
右横にタイトルがあり、左横に「私はお魚か」とある
適宜、書き出してみたい
そういう生活を理想としていたのだろうか
わたしのサイクルもこれと重なり、以下の記事に詳しい
不染の「海の底」がわたしの「フランス」で、不染の「此世」がわたしの「日本」と言えるだろう
周年ライフサイクル(2016.11.30)
一瞬の偶然で発見することになった不染との思わぬ繋がり
まさに油断ならない
発見が溢れている此世も捨てたものではない
『秋声』(1918)
『没後40年 幻の画家 不染鉄』より
もう一つ気付いたことがある
冒頭の方にある絵の屋根を見た時、10年前にオステンドで発見した画家のことを思い出した
ヴァレリウス・デ・サーデレールという画家 Valerius de Saedeleer(2008.12.28)
まだまだ発見はありそうだ
昨年秋に開催された不染鉄(1891-1976)の回顧展の画集が奈良県立美術館から届いた
早速、気になった海の絵を探してみた
ところが見つからない
・・と思ったが、おそらく絵葉書なのだろう、後ろの方にまとめられていた
『海底閑居之図』(1968)
不染77歳なので、晩年の作品
彼が辿り着いた境地を表していると言ってもよいのだろうか
添えられている文字が小さいので、読むのに一苦労
右横にタイトルがあり、左横に「私はお魚か」とある
適宜、書き出してみたい
『海底閑居之図』(1968)
『没後40年 幻の画家 不染鉄』より
『没後40年 幻の画家 不染鉄』より
此世は楽しい 何を見ても面白い 心が親切なれば 自然の方でも 私に親切だねぇ
自然と私とは別のものではない 自然即私だ ・・・
深海に住む魚のように 静に自分の心を見つめて
眞実とは何だ 倖せとは何だ 人生とは何だ 色々よく考へ かみしめよう
そしてさ 時々 此世へ 浮き上がり 人情の風にあたり ごちそうをたべ
そして深い深い海底へ沈んで
又 静寂の世界だ いいなぁ
普段は海の底に沈み、自省し、哲学せよ
その静寂の世界は何と素晴らしいことか、と言っている
そして、時には海の上に出て、人に触れ、うまいものを食べ、そして再び海底に沈むそういう生活を理想としていたのだろうか
わたしのサイクルもこれと重なり、以下の記事に詳しい
不染の「海の底」がわたしの「フランス」で、不染の「此世」がわたしの「日本」と言えるだろう
周年ライフサイクル(2016.11.30)
一瞬の偶然で発見することになった不染との思わぬ繋がり
まさに油断ならない
発見が溢れている此世も捨てたものではない
『秋声』(1918)
『没後40年 幻の画家 不染鉄』より
もう一つ気付いたことがある
冒頭の方にある絵の屋根を見た時、10年前にオステンドで発見した画家のことを思い出した
ヴァレリウス・デ・サーデレールという画家 Valerius de Saedeleer(2008.12.28)
まだまだ発見はありそうだ
2018年5月24日木曜日
学生時代の仲間と歓談
昨日は、ピエール・フランソワ・スイリさんに関する記事へのアクセスが異常に多かった
こういうことは偶にあるが、一体何があったのだろうか
ところで今夕、大学同期の歓談会に出席
わたしを含めて13名で、昨年の倍の参加があった
次第にこのような集まりの意味が大きくなるのだろうか
卒業以来初めての方もいたが、若き日の颯爽としたイメージが消え、最初は識別できなかった
それは見ているこちらも同じなのだろう
いつものように雑談の後、一人ひとり近況を報告
殆どがいまだに仕事をされている
手に職があるので続けられるのだろう
どうもプータローはわたし一人のようだ
先日案内したクリルスキー教授の講演会に参加するという方もいた
本もすでにアマゾンで予約注文されたとのお話を有難く聞く
経営に忙しい方もいれば、お孫さんの世話を楽しみにしている方もいる
奥様が大病をされた方、けがをされた方など、ご苦労されている様子が伝わってきた
次の瞬間どうなっているのか分からない危うい存在が我々である
そうだとすれば、必然的に今をどう生きるのかが問題になる
ただ、皆さんは将来のことも計画されているようである
驚いたことにそれが実に具体的で、夢の中にいるわたしとは大違いだ
現世に降りるということは、なかなか大変なことのようである
こういう会に参加すると世界が広がり、活力もいただける
これからも折に触れて参加したいものである
2018年5月20日日曜日
久しぶりの日本、そしていくつかの発見
ほぼ半年ぶりに日本に戻ってきた
フランスが奥まった書斎だとすると、日本は現実がすぐそこにある台所や居間になるだろう
フランスでは意識の底に沈んでいるが、日本ではそこから浮き上がるという感覚がある
この感覚は現在に至るまで変わらない
現在も翻訳の仕事に当たっており、最後になる三校のゲラを読んでいるところである
まだ修正を必要とするところが見つかる
ただ、今回は全体を頭に入れて読み直すことができるようになっている
そのため、この読みの後には修正点は最小限になるのではないかという予感はある
勿論、今のわたしのレベルにおいては、という限定付きではあるのだが、、
この間、気分転換にテレビをつけることがあった
それはいつも偶然に導かれたものになるが、少なからぬ発見がある
日本人のどこかにヨーロッパに対するあこがれがあるのだろうか
今回も美しいヨーロッパの情報が少なくないことに驚く
その中に直接関係するものがあった
今日のお昼に放送された「辻井伸行×パリ ~ショパンが舞い降りた夜~」
テレビをつけた時、どこかで見たような人が出ている
ピアノの修復や調律を専門にされているフィリップ・ジョリーさんだ
彼の工房にある古いピアノで辻井さんが演奏をしているところだった
6年ほど前にこの工房を訪問したことがあり、当時を思い出しながら懐かしく観た
左岸のピアノ工房で現代を語る(2012.2.17)
そして、今朝の日曜美術館
そうとは知らずにつけた時には終わりに近づいていた
今日は不染鉄(1891-1976)という画家が取り上げられていた
勿論、初めての方で、第一印象は囚われのない絵を描く方というもの
変わった経歴の持ち主で若い時に漁師をしていたこともある
その時の経験が関係あるのかどうか分からないが、海の絵の中に興味深いことを書いていた
正確なことは忘れたが、次のようなところでオヤッと思ったのだ
海に沈んでいる魚と一緒に暮らすこれはわたしの生活環と同じではないか思い、目を見張ったのだ
真実とは何か、幸せとは何か、人生とは何かを考えよ
そして時に陸に上がり、いろいろなものを食べ、そして再び海の底に沈んでいく
ウィキにあった彼の信条も今ではよく分かるようになっている
「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」「いヽ人」とはパスカルの「オネットム」に当たるのだろうか
「いヽ人になりたい」
もう少し正確な言葉を知りたくなり、画集などを注文した
2018年5月16日水曜日
「免疫学と感染症に関する日仏セミナー」のお知らせ
サイファイ研究所ISHEは、今年で創立五周年を迎えます
これまでの皆様のご支援に感謝いたします
今後とも当研究所の活動へのご理解をよろしくお願いいたします
来月中旬に元パスツール研究所所長でコレージュ・ド・フランス名誉教授のフィリップ・クリルスキー博士著『免疫の科学論――偶然性と複雑性のゲーム』(拙訳)がみすず書房から刊行される予定です
この機会に日本パスツール財団がオーガナイザーとなり、クリルスキー教授の講演会と日仏科学交流の会を以下の要領で開催することになりました
サイファイ研究所ISHEも会の開催に協力しております
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
当日、みすず書房による本書の展示と割引価格による予約受付があると伺っております
生体防御や生命について考える際の一助として、本書を手に取っていただければ幸いです
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日時:2018年6月23日(土)14:00~17:50
場所:京都アカデミアフォーラム in 丸の内(新丸の内ビル10階)
使用言語:英語と日本語(同時通訳付き)
セミナー参加費:無料(先着申込順100名)
懇親会参加費:5,000円(60名)
申込方法:こちらの申込用紙に記入後、日本パスツール財団事務局までメール(jimukyoku@pasteur.jp)あるいはファックス(03-6228-5365)でお送りいただければ幸いです。
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プログラム概略:
14:00~14:10 開会挨拶
14:10~15:50 パスツール国際合同研究ユニット発表
16:10~17:00 フィリップ・クリルスキー教授講演
17:00~17:10 質疑応答
17:10~17:40 パネルディスカッション
17:40~17:50 閉会挨拶
18:00~20:00 懇親会
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会の案内とプログラム詳細
ポスター
ご検討のほど、よろしくお願いいたします。
2018年5月13日日曜日
二度目のデジャヴュ
昨日のこと、二度目のデジャヴュに遭遇した
現在翻訳している本の著者フィリップ・クリルスキーさんの日本語情報が欲しくなり検索した
そうすると、最初の方はわたしがこれまでに書いたものばかりで驚く
つまり、わたしにとっての新しい情報はなかったのである
このような経験をしたのは、これまでに2度ある
一人はピエール・アドーさんで、もう一人はマルセル・コンシュさん
最初は本当に驚いたが、今回の驚きは同じことが3回もあったということだろうか
出版社によれば、クリルスキーさんの邦訳は今回が初めてだという
アマゾンに行ってアドーさんとコンシュさんの本を検索したが出てこない
邦訳されていないようである
どうもそういう人と縁があるようである
2018年5月12日土曜日
見方を変える時に哲学が果たす役割とは
昨日は申し分ない快晴だった
午後から旧市街で、医学雑誌の記事のタイトルを眺める
その中に Redefining medicineというエディトリアルがあった
Re- が付くと、哲学的な営みが含まれるという思い込みがある
私のフォルミュール「考える(think)とは、考え直す(rethink)ことである」の影響だろう
このエディトリアルには、医学というものを広い視点から捉え直そうとする姿勢があった
求められるものが変わってくるので、解析の仕方、まとめ方に変化が出てくる可能性がある
時代の流れに合わせて、見る枠組みを変えるということは重要である
そこに哲学が果たす役割があるはずだ
それがあるとないとでは、枠組みの新鮮さに大きな違いが出るような気がする
勿論、科学雑誌なので哲学的な処理ということではないのだが、、
ただ、一つだけ気になったことがあった
それは、健康とは何なのかを考えていかなければならないとしていたことである
これは哲学的な問いとして考えられてきたものでもある
検査値が正常の範囲内なので健康というような機械的な対応ではない何かが求められたのだ
しかし、医学に反映されるような解は出されなかったのではないだろうか
この問題に対して科学も考えていきましょうということなのか
今後の展開を追ってみたい
哲学と科学の歴史を見ると、問題が科学で解析ができるようになると哲学から離れていく
つまり、哲学は必然的に科学では処理しきれない問題を扱うことになる
そこで、哲学を科学的にするということはどういうことなのか
哲学の原点に返ることも重要なのではないだろうか
この問題は本日のタイトルと併せて大きな問題になる
これからも考えてみたい
2018年5月10日木曜日
パリでの歓談、最近の話題と繋がる
昨日は懐かしい場所も含めて、メトロとバスでパリ市内を移動
予想通りには進まなかったが、まずまずだったのではないだろうか
カルチエ・ラタンのあたりは、やはり濃密な空気が流れている
他ではなかなか感じられない
ぶらぶらしながらギャラリーを梯子をする
これまた乙なものである
夕方は、こちらで研究をされている方との歓談となった
活発に研究されている様子が伝わってきた
また、拙エッセイにも目を通していただいているとのことで恐縮する
自分の生活に取り入れるような読み方をされているという印象を持った
数日前に触れた哲学書のことや最新のエッセイで触れた「対話」のことが思い出された
これは非常に重要なことだということが身に沁みて「理解」できるようになっている
益々のご活躍を期待したいものである
トゥールに戻るとこれまでの景色が少し違って見えた
旅から戻った時にはいつも感じることである
出発の時と異なり、気持ちよい祝日の空が広がっていた
2018年5月9日水曜日
時間を異常に長く感じる
昨日はヨーロッパ戦勝記念日
忘れていた
一点の曇りもない快晴で、朝からのんびりした
向かいのアパルトマンを見るとバルコンに出て、ヴァカンスの雰囲気
こちらにも感染してくる
午後から用事があり旧市街へ
祝日は午後から開いているところだった
そのついでに、いつものカフェで数時間仕事をしてきた
まずまずだったのではないだろうか
今日は一転曇り
朝から用事があり、パリに向かう車中だ
実はトゥールから乗り継ぎのサン・ピエール・デ・コール行きがキャンセルになったという
こういうことは稀ではないので慌てない
仕方なく、タクシーでその駅まで向かった
ただ、少し時間を気にしている素振りがあったのか、ドライバーがこう言ってきた
「お客さん、ZENで行きましょう。ZENで」
わたしはこう答えた
「それはわたしの専門だったはずなんですが、、」
これは意外に受けたようだ
ところでこのところ、特に今週に入り、一日が異常に長く感じられるようになっている
昨日の朝、まだ週の一日が終わったばかりなのに、もう週末のような気分でいた
時の流れをしっかり掴んでいるということなのか、時間が消えているのか
あるいは、単なる経年変化なのか
いずれにせよ、それは良い感じなのである
2018年5月8日火曜日
ロビン・ジョージ・コリングウッドによる哲学
先日、ある人の本を読んでいたら、イギリスの哲学者R・G・コリングウッドが出てきた
普段、イギリスの哲学者は視界から消えているが、手元に1冊あったので読んでみた
An Essay on Philosophic Method である
最後にあった「文学としての哲学」をパラパラと
R・ローティの「哲学とは哲学書に基づく文学である」という言葉を思い出したからだ
普段読んでいる文章、思考法と異なっているが、興味深い対比がいくつか出てきた
詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学など
記憶に残っているところをメモしておきたい
一度自分の脳を通過しているので、少し修飾されているかもしれない
哲学には詩の要素もあるが、基本的には散文である
詩は言葉や言葉の並びの美しさを競う
一方の哲学はそういう美も求めるが、それが目的ではなく、あくまでも手段である
目的は思考をどれだけ明確に表現できるかで、真理の探究を目指している
同じ理由から、詩にとってのメタファーはそのものとして効果や意味を持ってくる
しかし、哲学では使うことはあっても手段であり、多用は厳禁である
歴史家は自分が知っている中から確実なものを選び、読者に諭すようなところがある
したがって、読者が歴史家に親近感を持つことは少ない
哲学者はその反対で、まず自分自身に向かって書く
告白の要素があるのだ
確実なものを選ぶのではなく、よく分からない曖昧なことも取り上げて書く
それらをよりよく理解しようとしているからだ
哲学者は難題に向き合うのに対して、歴史家はそれを隠す傾向がある
歴史書の読者は、歴史家に相談する
哲学書の読者は、哲学者の後を追うのだ
哲学者の体験を追体験して、自分もそのことを考える
そこに読者と哲学者との間に親近感が生まれる素地がある
つまり、歴史家には思考の結果を求めるのに対して、哲学者には思考そのものを求めるのだ
したがって、哲学者が抱えている問題意識と重なるものがないとその著作は意味を持たない
あの哲学者は何を言っているのか分からないなどと言っているのは、読者の責任になる
読む本を間違えているのである
科学は専門用語を多用する
ほとんど術語だらけで、それなしには科学は成り立たない
新しいことが見つかる度に、新しい術語が造られる
実は術語は言葉でなく、記号なのである
術語を普通の言葉で説明することは困難を極めることが多い
そのものとして知っていなければならないのだ
科学が一般の人に理解されないのは、当たり前と言ってもよいだろう
哲学は専門用語を殆ど使わない
科学のような、融通が利かない、それ故そのものだけを指すことができる専門用語は
使ったとしても、それは別の普通の言葉で説明することができる
第一、哲学に全く新しいことなど殆ど出てこない
既に少しは分かっているようなことに新しい意味が加わることはあっても
哲学が使う言葉にはいろいろな意味が内包され、柔軟性がある
つまり、科学書が技術書であるとすれば、哲学書は文学書ということになる
哲学は科学の言葉(=記号)を避けなければならないのだ
2018年5月7日月曜日
もう完全なヴァカンス、そして精神を支えているのは肉体
昨日も素晴らしかったが、本日も雲一つない快晴だ
午前中仕事した後、午後から街に出た
もう完全なヴァカンスの雰囲気である
木漏れ日の歩道など、ほとんど天国だ
先週の今週なので、何もやる気が出てこない
この雰囲気を楽しむだけだ
そんな中、比較的良い時間を持つことができた
ところで昨日、帰りに丁度バスが来たので、こちらに来て初めて走ってみた
しかし、体のコーディネーションが全く駄目で、驚く
考えてみれば、精神の中に生きているのだから、それは必然と言えるだろう
ただ、精神を支えているのは肉体であることも忘れないようにしたいものである
2018年5月6日日曜日
アーリング・カッゲを発見
昨日、今日と文句のない快晴である
デモか何かがあるようで、バスが間引き運転をしている
久しぶりに街まで歩いて出る
新しいル・ポワンで新しい人を発見した
勿論、知る人ぞ知る人なのだろうが、、それは関係がない
それを言い出すと、この世界には発見がなくなってしまうからだ
アーリング・カッゲ(Erling Kagge, 1963-)というノルウェー人の本が仏訳されたという
1990年代、南極点、北極点、エベレスト山頂の三極点を単独で極めたという人物だ
弁護士で、自ら立ち上げた出版社はノルウェーで最も成功しているらしい
また、ケンブリッジ大学で哲学の聴講もしていたようだ
これらの探検を通して、絶対的な静寂・沈黙を経験したのだろう
騒音に溢れた現代における静寂・沈黙の意味を考え、発表している
それと時間
忙しい現代では時間がない、となりがちだ
ソローが言ったように「ゆっくり流れる一瞬一瞬の中にある永遠」を見つけること
自由人は時間を持っているので、それができそうである
時間の大切さも説いているようだ
今のわたしにはいずれもよく分かるお話である
2018年5月4日金曜日
自分を借りているという感覚
この1週間、朝から晩まで籠ってゲラを読んでいた
そうしないと時間までに終わらなかったからだ
途中から、血が頭に上ったような状態になった
全身の血液が頭に集まり、脈打つという感覚である
その地点から見ると、普段は完全なアイドリング状態だということが分かる
いずれにしても、予定通り二校のゲラの突き合わせが終わり、日本に送ることができた
まだ関連の仕事は残っているが、一段落の小休止としたい
自己には少なくとも二つの自己があることには以前から気付いていた
それが自分だと思っている自己1とそれが見ているもう一つの自己2
自己1と自己2の距離は、孤独の中に入ったり、瞑想を繰り返す中でどんどん離れてくる
自分をよく見ることができるようになるという感覚である
1と2が相互に問いかけ、答えるという対話も始まる
おそらく、それが思考空間を形作っているのだろう
そのためか、精神も安定してくる
今回、このようなことを感じながら作業をしていた
そこから次のような感覚が生まれてきた
それを自分がやっているのではなく、その体を借りて(使って)いるという感覚である
これはデジャヴュである
それが何かと思い、記憶を手繰っていたら思い出した
自分が前に歩いているのではなく、風景が通り過ぎていくという感覚である
そのため、こちらに来てから歩くことが苦にならなくなった
いずれにせよ、この感覚を得ることができるとストレスがなくなってくることに気付く
何しろ、自分がやっているのではないのだから
これは自己2が体から離脱した状態なのだろうか
ここで言う体は肉体と精神を含んでいるので、所謂心身二元論でもなさそうだ
自己2が自分の肉体と精神を支配しているということなのだろうか
この感覚は、沈黙の中での生活が齎してくれた可能性が高い
こういう感覚を維持できれば相当のことができそうなのだが、、
昨秋、日本に帰った時の日々の密度が今週のそれに近いかもしれない
あの時も全く気にならなかった
ただ、アイドリング好きな人間にとっては、それを日常的にやるのは大変そうだ
2018年5月1日火曜日
今週は校正ゲラの見直し
本日は冷たい雨交じりの寒い一日
編集者と校正者が目を通した二校ゲラが届いた
金曜朝には終わらせなければならないので、今週はこれに掛かりっきりになりそうだ
三校もあるが、大きく手を加えることができるのは今回が最後になる
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